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ルイス・キャロルと日本


 キャロルが生きていた時代は、日本では天保から明治にあたる。この時期、オランダを除く欧米諸国にとって、日本という国が新たに「発見」されたことになる。そして、キャロルもこの時代の子であり、この東方の異国について幾ばくかの興味を持っていた。以下、門馬義幸「キャロルよもやま話」(日本ルイス・キャロル協会会報『MISCHMASCH』(4) 7-19, 2000)中「キャロルと日本」と題された論考を始めに紹介し、その後いくつかの興味深いと思われるトピックを述べて行きたい。

 「キャロルよもやま話」で、キャロルと日本の接点とされている事実は次の通り。

 さて、ここでは以下の三点からキャロルと日本との関わりを考えてみたい。

  1. キャロルが日本に関心を持ったのはいつの頃からか
  2. キャロルが最初に日本人を目撃したのはいつか
  3. 1874年にキャロルの見たJapanese entertainmentとはどんなものか

1. キャロルが日本に関心を持ったのはいつの頃からか

 Punchなどでは、1853年(ペリー来航)の頃には、既に日本について記事があった。また、イラストにも日本人が登場している(なぜかそのイラストでは日本人が黒人として描かれているが)。しかしながら、当時のイギリス人にとって極東の異国がはっきりと興味の対象になったのは、1862年以降であろう。
 この年、列強に要求された開港について、いくつかの港(江戸、大坂、兵庫、新潟)の開港を延期して貰うよう幕府はヨーロッパへ使節団を派遣した(竹内下野守保を正使とする38名。使節団の中には福沢諭吉もいた)。この使節団がドイツでの交渉を終え、フランスを経由してイギリスに着いたのが1862年の4月30日。その翌日からロンドンでは第2回ロンドン万博が始まった。5月1日の開会式には日本使節団も出席している。同年5月3日のIllustrated London Newsでは開会式に参加した日本人使節団が絵入りで紹介され、イギリス人の日本に対する興味をかき立てた。また、この万博ではオールコック(『大君の都』著者)の日本関連のコレクションが公開され、こちらも日本人使節団への興味と相俟って評判となった。もっとも、このコレクションの中身たるや漆器、刀剣から提灯や蓑笠のような物まで、雑多な寄せ集めで、当の日本人の言葉では「全く骨董店の如く雑具を集めしなれば見るにたへず」(使節団の一員、淵辺徳蔵の言)というようなものであったそうだがイギリス人の間での評判は良く、いくつかの出展品(銅器、金銀細工類)は賞を受けている。
 キャロルがIllustrated London Newsを読んでいたことは確かで(一度はキャロルの投稿が掲載されている)、この5月3日の記事もキャロルはおそらく読んでいると思われる。多くのイギリス人と同様に、キャロルもこの時に、奇妙な出で立ちをした日本人と、その国日本に興味を持ったのではないだろうか。
 ここでもう一つ、この時にキャロルが日本使節団を実際に目にしていたかという問題が出てくる。ただし、これについては否定的に考えた方が良いだろう。使節団がイギリスにいたのは1862年の4月30日から6月12日までであるが、その時期のキャロルの日記にはロンドンへ行ったという記述も、万博へ行ったという記述もないのだ。

2. キャロルが最初に日本人を目撃したのはいつか

 少なくとも1874年時点でキャロルは日本人という「異人」を目にしていたことは確かである。しかし、キャロルが日本人を目撃したのはそれが最初ではない可能性がある。
 キャロルは1867年、友人・リドンと共にロシア旅行に出た。その旅行がキャロルにとって唯一の「海外旅行」だったわけだが、その帰路に彼はパリに立ち寄っている。ちょうどパリでは第二回パリ万博が開かれていた(その後1889年のパリ万博でエッフェル塔が建てられる)。キャロルも万博を見物に行っており、日記にもその記載がある(9/9〜9/12)。そのうち、9月12日の日記に、「中国の音楽の流れているパヴィリオンを通り過ぎる。半フラン払って中へ入り、もっと近くで聴く。確かに、中と外の違いを見るには半フランの値打ちがあった。――ただ、二つのうちでは外の方が楽しいが」と書かれている。
 キャロルが入った中国のパヴィリオンではお茶の試飲所、劇場とともに、巨人と小人を「展示」していた(このパリ万博は、一種人種博覧会的な要素があった)。展示内容が内容なので、キャロルがはっきり書かず「外の方が楽しい」と書いた可能性はある。
 そして、その中国のパヴィリオンの隣は日本のパヴィリオンであった。1867年パリ万博では、日本から使節として幕府、薩摩藩、佐賀藩が独自で参加・出展していた(幕府使節の中には渋沢栄一もいた)。それ以外にも日本のパヴィリオンでは、「日本の農家」と称して日本の家屋の中で芸者を「展示」し、客が望めば味醂酒(「柳陰」「直し」のことか? あるいは屠蘇か?)の酌をしたり、茶の饗応をしたとのことである。日記に「日本のパヴィリオンに入った」という記載はなく(展示内容から考えて日記に残すとは思いにくいが)、キャロルが入ったかどうかは判らないが、少なくともこの回りで日本人を見た、あるいは日本使節の日本人が万博を廻っているところを目撃した可能性は高いと思われる。ひょっとしたら、キャロルが日本人を見たのは、この1867年が最初であるかもしれない。

3. 1874年にキャロルの見たJapanese entertainmentとはどんなものか

 幕末から明治初年にかけて海外に渡航した日本人の芸能人は、多く軽業であった。幕末(1867年)にアメリカに渡った軽業師・早竹虎吉や曲独楽師・松井源水が有名である(上方落語を知っている人なら、これらの名前をもじった和屋竹の野良一、松井泉水という名前を「地獄八景亡者戯」や「軽業」で聞いたことがあろう)。キャロルの見たentertainmentも、おそらく軽業であったと考えられる。では、具体的にどういう一座であったか。倉田喜弘『海外公演事始』(東京書籍)の年表を見ると、明治7年(1874年)以前の3年間に海外へ渡った芸能人は以下の通りである(括弧内は旅券に示された渡航先)。

 著者によれば、あくまでこれは「旅券の原簿といっても、目を通したのは東京、大坂、京都、神奈川、兵庫、長崎の六府県にすぎないから、実際の渡航者はリストに掲げた件数をはるかに上回るであろう」(同書p. 245)とあるが、明治のごくごく初期であるこの時期の場合、このリストでかなりの範囲をカバーしていると思われる。
 出航先は旅券に記されているものの、当時の海外渡航の事情は結構いい加減であったようで、旅券に記されている出航先と、実際の渡航先が違っていたり、人数や帰国の時期についても旅券通りでないことが珍しくなかった。中にはそのまま一座を離れて現地に永住した人間もいる。つまり、理屈の上ではこれらすべての一座がキャロルの見たentertainmentの候補と云える(それ以前に渡航した一座や、その居残り組もその候補と云えるが、可能性の高いのはこの時期であろう)。しかし、その中で最も可能性の高いのが明治5年10月に渡航した粟田勝之進らの一座ではないだろうか。彼らはロンドンで2年間興行したいと神奈川県へ出願している。出航から考えてキャロルがJapanese entertainmentを見たと記されている1874年6月には、興行から約1年半経っているという計算になる。あまり信用できないと思われる旅券の渡航先ではあるが、可能性としてこの一座をキャロルが見た可能性は高いのではないだろうか。もっとも、この仮定にも問題がないわけではない。この粟田一座はオーストラリアに渡航したことが判っており(いつ渡ったか、日本から直接かイギリスで興行を行った後なのか不明)、明治8年4月8日に柳川長七郎がオーストラリアから帰っている。そういう意味では断定は禁物であり、詳細な調査が必要と思われる。しかし現時点では、この一座が明治7年末までの2年間ロンドンで興行を行っているとするなら、最も可能性の高い候補であると思われる。以下に渡航当時(明治5年)の一座の人々を記載する(括弧内の数字は数え年での年齢)。

 なお、キャロルが『ミカド』を観た1885年、ロンドンには軽業師の集まった「日本人村」があった(1月開場)。ここでもキャロルが『ミカド』を観る前、あるいはその翌日に日本人村に行った可能性も考えられたが、6月時点、丁度日本人村が火事で焼失していた(5月2日焼失、12月2日再開)。

 以上、簡単ながらキャロルと日本との接点について示してみた。

参考文献
『博覧会の政治学 まなざしの近代』吉見俊哉 中公新書
『海外公演事始』倉田喜弘 東京書籍
サン・シモンの鉄の夢 絶景、パリ万国博覧会』鹿島茂 小学館文庫
門馬義幸「キャロルよもやま話」(日本ルイス・キャロル協会会報『MISCHMASCH』(4) 7-19, 2000)
*追記(2000.12.28)
 1862年のロンドン万博に日本人使節団が出席したこと、Illustrated London Newsにその時の日本人が絵入りで紹介されたこと、そして、それがイギリスの一般市民の日本「発見」の火付け役となったことを踏まえ、改稿しました。


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