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絵本としての『アリス』


 キャロルという人は、絵と本文が一体であるべきだと考えていたようで、そのため、『アリス』でのテニエルに対する要求は相当なものだったということだ。本当かどうか、キャロルが唯一満足したのは『鏡の国』の中のハンプティ・ダンプティだけだったとか。一面、テニエルの意見を容れて本文を削除したり(「かつらをかぶった雀蜂」のエピソード)、あるいは本文を書き換えたり(『鏡の国』第3章でアリスが山羊の髭を掴む部分。もともとは老婦人の髪を掴むことになっていた)といったこともしており、必ずしも巷間伝えられているように自分の意見だけを通したわけではなかったのだが。ともあれ、本文とイラスト、あるいは本文のテクストに視覚的効果を用いるということがキャロルにとってはかなり重要な要素であった。
 本文の視覚効果について有名なところでは、『不思議の国』に出てくる「ねずみの尾話(おはなし)」。これは、訳文によっては、単に文字が上がったり下がったりしているだけに見えるけれども、原文を見れば、はっきりとねずみの尻尾の形に書かれている。つまり、アリスがねずみの尻尾のことで頭が一杯だったので、ねずみの身の上話が頭の中で尻尾の形を取ってしまったという訳(これは、手書きの『地底の国のアリス』を見れば、もっとはっきりする)。その結果「あんたは何も聞いてないな」と云われて「五番目の曲がり目に来たところよね」となる(丁度、尻尾の形の詩が、五番目の曲がり角に来ているところだった)。もっとも、初版*の復刻を見る限り、ねずみの尻尾は十回程曲がっているが。もう一つ有名なものとして『鏡の国』第3章の、蚊とアリスの会話。ここでは、蚊の、それこそ「蚊の鳴くような」声を表すために、その部分だけが活字のポイントを小さくして印刷されている。それでアリスと蚊の声の大小が見た目にもはっきりする。

 イラストと本文の密接な結びつき、あるいは視覚的な効果ということをみる場合、最初に、絵本として作られた"Nursery 'Alice'"を例に採ってみよう。これが、一番解りやすい。邦訳では、原書の形式を忠実に再現した『おとぎの"アリス"』(高山宏・訳、ほるぷ出版)を見れば解りやすい。
 まづ第1章。ここでは時計を持った白うさぎの絵が描かれているが、ここでキャロルは本文に「うさぎがどんなにぶるぶるしているか、みたいんだって? じゃあ、この本を横にすこしふってごらん。うさぎがふるえているところがみられるよ(高山宏訳。この段落の以降の訳文も同様)」と書いている。また、第9章ではチェシャ猫を見上げているアリスの絵の2ページ先に(つまり、紙1枚分先に)消えつつあるチェシャ猫の絵が描かれていて、本文には「このページのふちっこをちょっともちあげてごらん。すると、アリスがニッタリわらいをみてる絵ができるでしょう。ねこをみているときにもアリスはこわがってなかったけど、ニッタリをみても、やっぱりアリスはこわがっていないみたいだね」とある( 映像−232KB−参照)。丁度、この部分が一種の「しかけ絵本」のようになっている寸法。あるいは第10章ではあの「気違いお茶会」のイラストに対して「ちょっとすると、アリスはお茶と、それからバターのついたパンを食べることができました。それにしても、バターのついたパンはなににのっていたのでしょうねえ。だって、パンをのせるお皿なんかなかったからです」と、イラストにお皿が描かれていないことに本文で半畳を入れる。第13章では、アリスが立ち上がったときに陪審員の動物がみんなひっくり返る、その絵について「その十二人がだれだれかわかりますか?」と問い、その内の一匹については「テニエルさんがいうには、このないている鳥はこうのとりの赤ちゃんなんだって」と、イラストレーターの名前まで出す。他にも絵の説明や絵をダシに本文を書いている部分が非常に多い。

 まあ、これは「絵本」であることが前提だからここまで本文に立ち入ったという部分があろう。しかし、『不思議の国』『鏡の国』でも、やはり本文とイラストの調和、あるいは一種「仕掛け絵本」的な趣向が凝らされている。これについては、両方とも著者の目を通した初版の復刻を見るのがいいのだが、翻訳では岩波書店の脇明子訳『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』が、多少なりとも参考になるかも知れない。
 有名なところで、しかも多くの刊本あるいは翻訳でないがしろにされている部分としては『鏡の国』で、アリスが鏡を抜ける部分のイラスト。これは、初版では一枚の紙の表と裏に印刷されている。つまり、アリスが鏡の中へ入るイラストのページをめくると、読者の目には鏡を抜けてきたアリスのイラストが目に入る。丁度、一葉のページがそのまま「鏡」になっていて、アリスがそれを通り抜けたような錯覚を起こすように配置されている(映像−232KB−参照)。どういう訳か、この部分がまともに印刷されずに見開きのそれぞれの面に印刷されている本が多いのだが(ガードナーによる註釈本ですら、原書、翻訳とも見開きになっている。嘆かわしい)。
 また、これは「仕掛け絵本」的と云っていいかどうか判らないが、同じく『鏡の国』で、「切れ」たアリスが赤の女王を捕まえ、猫に変えてしまう部分(夢から覚める部分)で、アリスに捕まえられた赤の女王のイラストの3ページ後に、全く同じ構図、全く同じ大きさでアリスに捕まえられた猫(キティ)のイラストがある。ちなみにこの部分では、わずか1ページの章やわずか1行の章があったりして、完全に本文がイラストに奉仕している。

クリックで拡大画面 さて、ここからは本文にイラストが奉仕した例を挙げてみよう。『不思議の国』第2章の冒頭、本では背の伸びたアリスのイラストがページの左半分を一杯に使って描かれている。そのページの一番下の行、アリスの足のある部分の横に「さようなら、私のかわいい足」という科白の"little feet"の言葉が来るように配置されている。また、第1章でアリスがカーテンをめくって小さいドアを見つける部分、この部分ではイラストが配置された右側の本文が、カーテン、めくった後ろ側、そこに見えるドア、といったように、丁度上から順に、イラストの、そのものの描かれている場所の真横に言葉が来るように配置されている。全く同じことが第4章でも見られ、アリスが窓から手を出して白うさぎを驚かせる部分、ここも、上から手を出した、うさぎが落ちた音、胡瓜の温室といった具合に、イラストの位置と本文の単語が一対一に対応しながら配置されている。
クリックで拡大画面 これが、ページの幅一杯に描かれた大きなイラストだと、丁度本文がそのイラストのキャプションのようになる。例えば『不思議の国』でアリスがハートの女王と対峙しているイラスト。この絵のあるページで、まさにイラストの真下の行から「女王は真っ赤になって怒り、アリスを暫く野獣のような目で見た後、叫びました。『首を刎ねよ! 首を……』」という文が始まる。あるいはコーカス・レース(乾かす・レース?)の後、ドードーがアリスに指貫を渡す部分。これもイラストの真下の本文が「皆はもう一度アリスを囲んで、ドードーがアリスに指貫を渡しました」という文になっている。また、先にも出した『鏡の国』の、鏡を通り抜けるイラスト。これも丁度イラストの下の行からアリスが鏡を抜ける過程を書いていて、まさに鏡を通り抜けたところでページをめくるようになっている。

 以上、キャロルという、自身絵心のあった作者が、自分の満足の行くように本を作った時、絵と本文をいかに一体化しようとしたかを簡単に紹介してみた。

[参考文献]
M.ハンチャー『アリスとテニエル』(石毛雅章訳)東京図書


*正確には第2版。初版の刷りが気に入らなかったテニエルの要請を受けて初版は回収された。マクミラン社が公式に発売した最初の版は第2版ということになる。

**映像、あるいは画像に使用した本
Alice's Adventures in Wonderland:第2版復刻
Through the Looking-glass:初版
Nursery 'Alice':第2版

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