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『不思議の国のアリス』版の変遷


『不思議の国のアリス』は1865年の初版発行からキャロルの死の前年の1897年まで改訂が続き、最終的には第9版まで数えることとなる。以下、Lewis Carroll Handbookを参考に記載する。
キャロルがテニエルの意見に従って初版を廃棄し、第2版がマクミラン社から正式に承認された最初の版として出た経緯については「『不思議の国のアリス』初版騒動」で詳しく説明している(実際に初版と第2版でどう違うかは註記参照のこと)。その後、第3版、第4版が1867年に、第5版が1868年に出ている。

大きな変化は第6版で現れる。1868年に初刷の出たこの版から、版が電気版(electrotype)によって刷られることとなった。これが1897年の第9版が出るまでの『不思議の国のアリス』本のベースとなる。
第7版は1886年に出ている。この版で大きく変わったところは"'Tis the voice of the Lobster...."の詩が大幅に書き加えられた点(図2参照)。それと、「ネズミの尾話」のしっぽの形だ(図4参照)。

1891年に出された第8版は、以下の点でユニークな版といえる。

  1. チェシャ猫を見上げるアリスの顔。第2版から7版まではアリスの横顔が見えていた。ところがこの版のアリスは『子供部屋のアリス』の挿し絵と同じく、顔が見えず、髪の毛だけが見えている(図3参照)。その後の版(第9版)では、また、顔の見えるものに変わっている。
  2. 「ネズミの尾話」のしっぽの形。初版(第2版)と違って第7版では形が変えられている。ところが第8版では、また初版(第2版)の形に戻っている(図4参照)。
(2002.7.13追記)木場田由利子氏より指摘がありました。「ネズミの尾話」の形ですが、初版(第2版)と、第8版の間では"cunning old Fury...."の、"cunning"の位置が違っており、しっぽの形が微妙に異なっているとのこと。また、1881年発行の版(第6版の後刷)は、第8版と同じ形になっているとのことでした。そこから考えると、この「ネズミの尾話」は
初版(第2版)→本文の修正を含む小さな修正(第3〜第6版の間で一度あるいは複数回)→第6版→第7版で再度修正→第8版で第6版の形に戻す→第9版でしっぽの形が完成
という経緯を辿ったと考えられます。木場田由利子氏に感謝するとともに、本文を修正しました。

この二点については、なぜこの版でこうなったのか理由が解らない。前者については、その前年に発売された『子供部屋のアリス』との関わりがあるかもしれない。

キャロル生前の最後の版である第9版は、初刷が1897年、その後1898年に後刷が出ている。この版は第6版以降、版を全面的に改めたもので、以下の点が特徴的である。

  1. 作者の前書きが附されて、特にその中で「気違いお茶会」に出てくる帽子屋のなぞなぞの答が書かれている。
  2. 短縮形の表記が、キャロル独自のものに統一された。(図5参照
  3. 「ネズミの尾話」の形が、綺麗なしっぽの形になった(図4参照)。

さて、版の変遷を云う場合、通常はこれでよいのだが、細かな点で、もう少し説明が必要となるだろう。
上記1.についてだが、同じ第9版でも、1897年の初刷と翌年の後刷では、一部違いがある。帽子屋のなぞなぞ「Why is a raven like a writing desk?」の答だが、初刷では「Because it can produce very few notes, though they are very flat; and it is nevar put with the wrong end in front!」となっている。ここで「nevar」となっているのが、キャロルの答のミソで、一見「never」の誤植と見える「nevar」を、後ろから読めば「raven」となる。キャロルはここでもちょっとした言葉遊びで遊んでいるのだ。しかし、マクミラン社ではこの言葉遊びに気づかず、1898年の後刷では「never」という正しい綴りに「誤植」されてしまっている(図6参照)。
次に2.だが、キャロルはcan't, won't, shan'tといった短縮形を「合理的でない」と考えていた。たとえばis notの短縮形isn'tだと、「o」の略されたところが「'」によって示されているわけだ。ところがcan'tやwon't, shan'tでは、文字の略された位置にアポストロフィが置かれているわけではない。だから、省略の記号としてのアポストロフィという役割が曖昧になってしまう。そのためキャロルはcan notの略をca'n't, will notの短縮形をwo'n't, shall notの短縮形をsha'n'tとすることを提唱し、自分の作品で使うようになった。
『不思議の国のアリス』では、これらの短縮形が使用されたのが1897年の第9版の全面改版からだと云われていた。ところが、どういう訳かsha'n'tのみはそれ以前の版でも出てくるのだ。第7版と第8版にはsha'n'tが見られる。初版(第2版)ではまだ通常のshan'tを使用していることから考えて、おそらく第6版からsha'n'tが使われた可能性がある。なぜcan'tやwon'tに先立ち、sha'n'tだけが早く出現しているのかは不明である。
なお、1887年に出た『不思議の国のアリス』people's editionではca'n'tとsha'n'tが、1889年に出された『シルヴィーとブルーノ』ではすべてが使用されており(門馬義幸氏の情報)、1989年の『子供部屋のアリス』でも同様の短縮形を見ることができる。

以上が簡単ではあるが、キャロル生前の『不思議の国のアリス』の版の変遷である。
末筆ではあるが、1891年版『不思議の国のアリス』について撮影を許可下さった木場田由利子氏、キャロルの短縮形使用についてPeople's Editionと『シルヴィーとブルーノ』の情報を寄せて下さった門馬義幸氏に感謝します。


註記:初版と第2版の挿し絵について
以前、ある方の厚意でアプルトン版の初版とマクミラン版の正式版(第2版)とを比較する機会に恵まれた。テニエルが初版の絵の刷りを気に入らず破棄させた(実際にはアプルトン社から出版されたわけだが)。トマス・ハインド『アリスへの不思議な手紙』(東洋書林)では、初版と第2版でどう違うか、「アリスがDrink meのビンを眺めている」図を例として掲載しているが、実物を見ても確かにアプルトン版の彫りは雑な印象を受けた(雑というのは適当でないかもしれない。影の線が多く彫られ、全体にやや暗く、汚い印象を受けるのだ)。それ以前にもアプルトン版の復刻版(1927年)と、マクミラン正式版の復刻版(1985年)とで版の比較をしたことがあったが、アプルトンの復刻が質の悪い紙(ペーパーバックに使われるような)に印刷されており、絵の汚いのが元の版によるものなのか、復刻の際の問題なのか判然としなかった(図1参照)。現物を確認することで、挿絵に関してははっきり版木の彫りに違いのあることが判った(ただし、同じ元絵の版木の彫りが違うだけなので、比べてみなければそうと判らない程度の違いである。今、海外ペーパーバックや日本の訳本のいくつかにみられる、コピーにコピーを重ねたような絵の方が、アプルトン版よりよほど汚い)。また、使用されている紙も、第2版や後の版と違い、明らかに質の悪いものを使っている。まづページによって紙の質にむらがある。そして、悪いものでは紙を漉いたときの網目が残っているものもあるのだ(しかもそれが少なくない――さすがに、復刻版ほど悪くはないが)。紙の問題や版木の問題は、おそらく『不思議の国のアリス』が最初に出たとき、自費出版に近い形であったことから、コストを落とすための方策だったのではないか*。そのためテニエルが挿絵の刷りに満足せず、初版を廃棄したのではないだろうか。なお、二冊の「初版」を比較させて下さった方によれば、アプルトン版の中にも(Lewis Carroll Handbookに書かれている二種類以外にも)異版が多くみられるとのこと。紙の問題を考えると、異版というより、むしろ本それぞれのむらである可能性も考えられる。
(お断り)本来なら資料を閲覧させて下さった方の名前を挙げ、ご厚意に感謝するべきところですが、実名を挙げることで「資料を見せてくれ」と連絡がある等、その方の迷惑になる可能性も高いので、あえて匿名にしました。この場を借りて、その方に感謝致します。

(2002.12.11追記)
*当初、紙の問題について、コストを落とす「マクミラン社の方策だったのではないか」としていましたが、実際には、初版はオクスフォードの印刷所(クラレンドン・プレス)で、キャロルの注文により刷られ、それをマクミランが製本していたのを失念していました。コスト削減であるかどうかはともかくとして、それを考えたとすれば、むしろキャロルのほうでなければ理屈が通らないことになります。お詫びの上訂正致します。


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