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ウ・エ・マ・シャット?


『不思議の国のアリス』の第二章で、アリスが鼠に話しかけるが、この時、アリスは鼠がフランスから渡って来たのかもしれないと思って、フランス語で話しかける。「Où est ma chatte?(私の猫はどこにいますか)」。鼠はこの「猫」に驚く訳だが、この言葉、本文ではアリスの持っているレッスン・ブック(lesson-book)の最初のページに出てくる言葉ということになっている。
マーチン・ガードナーのThe Annotated ‘Alice’ the Definitive Editionに、この本の正体が書かれている。註にLa Bagatelle; Intended to Introduce Children of Four or Five Years Old to Some Knowledge of the French Languageという書名が出ているのだ。
高山宏は『新注 不思議の国のアリス』でこの本を『馬鹿本』と訳している。高山訳はDefinitive Editionの前の版More Annotated ‘Alice’からの翻訳であり、この部分の原文を確認すると、こちらの版では単にLa Bagatelleとだけの記載だけになっている。これだったら「値打ちのないもの、取るにたりないもの、小品」という意味から、ちょっと捻りを利かせて『馬鹿本』と訳すのも不思議ではない。
さて、なぜここでLa Bagatelleにこだわるのか。この本の正体がアリスの科白「Où est ma chatte?」をどう解釈するか、という問題に関わってくるからである。通常、この部分は発音通り「ウ・エ・マ・シャット?」と訳されることが多い部分ではあるが、日本人が読んでも全く面白くない。作品の成立事情と、元の本が何か判ったということから考えて、この本が実在のアリスをはじめとする三姉妹がフランス語を勉強する時に使っていて、キャロルが「Où est ma chatte?」と言ったとき、おそらく3人は大笑いしただろうことは確かと思われる。それが、「アリスだけに受けた」のか、「同時代の子供には大体受けた」のか。このフランス語の本が難しい本なのか、易しい入門書なのか。例えばこの部分を日本語に訳すにしても、当時の子供にとって難しい勉強の本だったら「我が猫、何処に在り耶?」などという、漢文風に訳すということも出来るし、それで何となく雰囲気を感じることも出来るわけだ。逆に、初心者向けの易しい本だと漢文調に訳すわけにゆかない。でもそうなると音だけ移して「ウ・エ・マ・シャット?」とするのも問題があるかも知れない。日本の子供にはフランス語の発音だけ書いても、あるいはその後ろに日本語訳を入れても、あまり面白くないのだから。もっとも、現代のイギリス人の子供がこの部分を読んで大受けするかといったら、そうは思えないわけで、そこまで「当時の子供」の視点を考える必要があるのか、と言われれば、なるほどそこまでやることもないともいえる。だが、同時代における影響の解釈という点では出来ればそういう部分にもこだわる必要もあるだろう。

La Bagatelle「難しい本か易しい本か」という疑問については、本のタイトルそのものが答えになる。Intended to Introduce Children of Four or Five Years Old to Some Knowledge of the French Languageだから、現代日本だと就学前の子供が読むレベル、決して難しい本ではない。あと、大きさがどれくらいか。教科書的なものなのか、練習帳のように書き込み出来るものだったのか。では、実際にその本を見てみよう。
この本の大きさは24切版。大体縦の長さが13センチから14センチである。文庫本サイズの『子供のためのフランス語教室』といった体裁と考えて貰えれば、大きくイメージがずれることはないと思われる。どうやら、このBagatelleという言葉、「値打ちのないもの、取るにたりないもの、小品」という意味のフランス語は、この場合豆本とかミニブックとか、そういう意味合いで使われていると考えられる。そして本文が171ページ(これは版によって違いがあるようだ。手持ちの1834年版では本文ページが171ページだが、他にもページ数の違うものがあるらしい)。肝心の「Où est ma chatte?」はテキストの冒頭の文であることが判る。実際には見開きの左ページに単語とその訳、右ページにイラストと本文となっている。また、この本は読むための本であって、練習帳や問題集のような、書き込むタイプのものではない(「練習帳」という訳語は、その意味で不適切)。
本のタイトルでは単に子供向けという雰囲気ではあるが、この本の前書きをみると、それだけではない。読者に宛てた前書きでは「To Miss ――.」となっており、小さな女の子に向けて書かれていたことが判る。当時の女の子向けに家庭教師が使用していたテキストだったわけだ。
また、ガードナーの註釈本では、このLa Bagatelleの初版が1804年となっている。そしてこれを1852年生まれのアリスが使っていた。と、いうことはLa Bagatelleという本は結構なロングセラーだったということになる。つまり、この「Où est ma chatte?」というのは、日本の子供が英語といえば「This is a pen.」という、それと同じようなレベルの言葉であり、しかもその言葉をアリスは、よりにもよって鼠に対して話しかけるのに使ったわけだ。『不思議の国のアリス』が出た当時、読者たる子供(特に女の子)はこの部分を読んだ時大受けしたことは間違いない。

註)この部分、あの柳瀬尚紀ですら「ワタクシノネコハ、ドコニイマスカ?」と、外国語訛りの日本語で切り抜けている。「上方落語風」と題した拙訳では、誤訳だとかやりすぎだとかの指摘を覚悟で「ワガハイハ ネコデアル」としてみたが、いかがであったろうか。


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