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第二話

「一! 二! 三!」魔術師は瓶を下に置き、疲れ切って椅子に沈み込んだ。「疲れた。九時間か」ため息をつき、眉の汗を拭った。「九時間も骨折ってやっと八百三十二にしかならんとは。全く! マルティン・ワーグナー 1 の処方箋 2 では、地表にあるすべてのものを三滴ずつということだ。とはいえ、必要な成分はあと百六十八 3 ――もうすぐだ――そうすれば炊(かし)いで 4 ――それから――」外から自信なさげなノックの音がしたので独り言が止まった。「ブロフスキだな」老人は呟きながら、ゆっくりとドアの閂と錠を外した。「こんな遅くにここへ来るとは、どういう風の吹き回しだろう。あいつときたら凶兆の鳥 5 だからな。あの禿鷹みたいな顔 6 は信用ならん。――おや! どうしたんだね、シニョール?」訪問者が入ると魔術師は声を上げ、驚いて後ずさりした。「どこで目の回りに痣を作ったのだね? 顔ときたら打ち身でもって虹みたいになってるじゃないか! 7  誰に襲われたね? と、いうより」小声になって「誰を襲おうとしていたのか、だな。どっちかというと、そっちのほうがありそうな話だ」
「ご老体、顔のことは気にしないで下さい」慌ててブロフスキは答えた。「夕べ、家に帰る途中でつまずいただけなんです。暗かったもので。それだけなんです。請け合います。でも、今来たのは、全く別の用事でして――助言が欲しいんです――と、いうかご意見を伺いたい、と言うべきでした――難しい問題なんです――たとえば、誰か一人――たとえば、誰か二人――たとえば二人いたとして、AとB 8 としましょうか――」「たとえば! たとえば、か!」馬鹿にしたように魔術師は呟いた。「そして、たとえば、この二人が、ご老体、つまりAとしますが、Bに手紙を持っていって、それで、Aが手紙を読んだとします、つまり、Bのことですが、そしてBが――いや、Aが、ですね――Bに一服盛ろうと――いや、A 9 に、です――そして、たとえば」――「君」老人が遮った。「一般論で話してるのかね? 私には君がたいそう混乱しているように見えるのだが」「もちろん、一般論ですって」噛みつくようにブロフスキは答える。「話の腰を折らずに聴いていてくれたら、よくお解りになりますよ!」「続けたまえ」魔術師の言葉は穏やかだ。
「そして、たとえばAが――いや、Bが、です――Aを窓の外へ投げ飛ばして――いや、むしろ」最後に付け加える。この時までに少し混乱していたが自分を取り戻して「いや、むしろ、言い方を変えた方が良かったですね」老人は髭をしごいて 10 、暫く考え込んでいたが、とうとう口に出した。「ふむふむ、解った。A――B――なるほど 11 。BがAに一服盛って――」「いや、違います!」シニョールは叫んだ。「BがAに一服盛ろうとして、です。実際にはやっていません。途中で私も考えが――いや、つまり」慌てて付け足す。喋っている間も顔が真っ赤になっている。「この男は実際にはやっていないと考えてください」「ふむ!」魔術師は続けて、「これではっきりした――B――A――なるほど――だが、それが君が顔を切った 12 のと、一体、なんの関わりがあるのだね?」不意に訊いた。「全く関係ありません」ブロフスキが吃りながら「さっき、馬から落ちて顔を切ったと言いましたが――」「おお、そうだった! ええと」老人は低い声で繰り返して言った。「暗い中でつまずいて――この男は落馬したのだったな――ふむ、ふむ!――そうだな。君はのっぴきならないことになっているわけだ――やはり」声を大きくして続けた。「少しは解ったといった方が良かったかの――だが、正直なところ、何が訊きたいのか、全く判らないのだよ」「ですから、Bは何をしたらよいか、ということです」とシニョール。「だが、Bとは誰なんだね? ブロフスキのBかね?」「違います」というのが答えだった。「私はAです」「ああ! やっと解った――だが考える時間がいるのでな、さらば、達者でな 13 」そして、ドアを開け、いきなり客を追い出した。「さてと」魔術師は言う。「混ぜ物には――ええと――三滴の――よし、よし、坊や、君はのっぴきならないことになっているのだよ 14 」 (第三話に続く)
1.この偉人は1548年にストックホルムで生まれた。
2.おそらくは魔法の呪文。
3.成分が全部で 1000
  引くことの    832   
     あと    168   混ぜれば良い。
4. 煮る。
5.似たような表現として「借金鳥(とり)」がある。
6.この顔を画家は描こうとしなかった。
7.参照:赤橙黄緑青藍紫。
8.このアイデアにより、思考が大きく数学的になったことをはっきり示している。
9.混乱しているのは、嘘をつくのに頭がいっぱいであるため。
10.この動作は深く物事を考えていることを表す。
11.「はい、はい」という意味。
12.その上、打ち身を作った。第一話参照。
13.皮肉で言っている。
14.第五話参照。