かつて、ルイス・キャロルは少女にしか恋愛感情を持たなかったという説が一般に信じられていた。しかしながらその説は多くの矛盾を含み、現在、必ずしも全面的に支持されているわけではない。また、ルイス・キャロルがアリス・リデルに求婚したという説も、その元をたどれば一伝記作者の憶測に過ぎず、なんら資料の裏付けを伴ったものではない(なによりその伝記作者は、キャロルの日記すら読んでいない)。すなわち、求婚伝説自体も信じるに足るものとはいえない。有り体にいえば、ロリータ・コンプレックス説も求婚伝説も、現在では全く相手にされていない、俗説の類である(これについては「ルイス・キャロルはロリコンか?」、「リデル家との仲違いと「求婚伝説」の嘘」に詳述)
しかし、現在の日本におけるキャロルのイメージは「ロリータ・コンプレックス」である。特にこの傾向は中途半端に知っている人間ほど顕著であり、中にはキャロルを「性倒錯者」「ロリコンの変質者」と信じている人まで存在する。
例えば2003年に出版された『不思議の国のアリス』翻訳においても、こういったキャロル像がそのまま紹介されている。
この本を書いたのは、ルイス・キャロルという人だけれど、これはペンネーム。本名はチャールズ・L・ドジソンといって、十九世紀の前半くらいにイギリスの数学の先生だった人だ。この人は、ロリコンの変態で、ちっちゃな女の子をはだかにして写真をとるのが大好きだった。いまならカメラ小僧とかいわれる人になったかもしれないね。
(山形浩生「訳したやつのいろんな言い訳」:『不思議の国のアリス』朝日出版社(2003)pp.246-247)
現在日本語で読める最も詳細な伝記といえる『ルイス・キャロル伝』(上・下、モートン・N・コーエン/高橋康也監訳 河出書房新社)ですら、その下巻の帯には本文の内容とは全く相容れない「「アリスの作者にして当代一級の数学者、聖職者にして開明的な写真家、非の打ち所のないヴィクトリア朝紳士にして少女愛好者」という宣伝文が書かれている。日本において、かくも歪んだイメージが広がったのには、一つには文学系の受容における、もう一つにはサブカルチャー系の受容における、ともに「情報の一人歩き」が生じた結果であると考えられる。ここでは、サブカルチャー、特に日本のコミック・アニメ文化における、歪んだキャロルのイメージ定着についてその経緯を述べてみたい。
まづ初めに、現在インターネットで流布している代表的な意見をいくつか見てみよう。ここで引用する記事は、2003年10月現在ネットで存在していたものである。
★『不思議の国のアリス』と、続編『鏡の国のアリス』はルイス・キャロルの近所に住んでいたアリスという名の少女を口説く為に書かれた。 [豆知泉2829記載]
★『不思議の国のアリス』の著者の数学者キャロルは幼児ポルノ写真愛好家であった。
(「雑学蔵[知泉]」http://www.elrosa.com/ より)
ロリコン2000.02.04
V・ナボコフの小説「ロリータ」が語源。
世の中にはロリコンは結構多いみたいね。インターネットでもよく目にするし。
ところで、歴史上有名なロリコンは、あの「不思議の国のアリス」の作家 ルイス・キャロル。
彼は生涯に160通ものラブレターを少女達に送ったそうよ。それに、多くの少女をモデルにした写真を撮ったんだって。ヌードは焼却されたらしいけど、ブラウスを破られた少女や両手を縛られた少女の写真が残っているそうよ。
ロリコンというよりSM?
(女装娘のための小ネタ集(その2)http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/2487/shumi_zatugaku_02.htm より)
彼は、はっきりいって、ロリータコンプレックス(ロリコン)でした。彼は、吃音のハンディキャップのために、人との付き合いが苦手でしたが、子供たちの前では、急におしゃべりになって、けっしてどもることはなかったといわれています。彼は、30歳の時に13歳になった学寮長の娘のアリスに結婚を申し込んでいますが、アリスの両親によって拒否されています。ちなみに、すっかり年頃になったアリスには、興味を無くしていたと、いわれています。もちろん、成長しない少女などいるわけも無く、彼は一生独身だったそうです。
(http://homepage2.nifty.com/hi-rose/ijinden/1gatu/0127.htm#kyarol より)
ロリータ趣味の変態数学者が作り出した他愛もない物語が世に言うアリス物語の起源で、これはよく知られているように、『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』となりました。アリスとは、ルイス・キャロルまたはチャールズ・ドジソンが恋したある少女の実名であり、このアリス・リデルは、ドジソンが勤めるオックスフォード大学クライスト・チャーチの学寮長の娘で、アリスが少女でなくなると、彼は興味を無くしたといわれています。アマチュアカメラマンとしても有名だったドジソンは、少女の裸体を含む多数の写真も残しました。
授業では、『不思議の国のアリス』の方を読みます。童話ですが、英語は意外に難しいですから、馬鹿にするのは禁物。授業は完全にアトランダムで、その日の抽選で決めますので、誰にどこがあたるかは私ですら予想つきません。よって、毎回予習してくること。基本的には、訳読しますが、訳本を買うことは禁じ手とします。
(山形大学のシラバス http://kbweb3.kj.yamagata-u.ac.jp/2001/html/00001E2C.htm より)
さて、アリスの話はさておき
この作者である、ルイス・キャロル、彼について少し
不思議の国のアリスの巻末に、この人について書いてあったのだが
マジもんのロリコンじゃないか・・・・(;´Д`)
10才以下の女の子にしか、心を開くことが出来ず
唯一求婚を申し込んだ相手が、13才の、アリス・リデル
・・・・・・・・
(かたつむりん http://www.gld.mmtr.or.jp/~ri-rui/says/sa0106.htm より。原文の半角片仮名は全角に修正)
一見してデタラメと判る記述がネットで流されている。上記は一例に過ぎないが、ネットで流れているこういったデマを眺めていると、その中に出てくるエピソードに、多く共通したものがみとめられる。
この中で事実と呼べるものは3.の少女のヌード写真を撮影していたという点だけである。1.と2.を併記している記事も多く、これらではキャロルが心を開く年齢とアリスの求婚された年齢の矛盾について無視している。また、2.のパターン2では、キャロルとアリスの年齢差を無視している。4.に至っては、およそ出所不明のエピソードである。おそらくここで言及されている写真というのは「乞食娘の扮装をしたアリス」と「アンドロメダに扮したケイト・テリー」の写真かと思われる(この二枚の写真は、『別冊現代詩手帖 ルイス・キャロル』に収録されており、この本の読者なら見ていない筈のないものである)。どちらの写真も、ネット上での記述から想像されるような、ポルノ的なものではない。
出所不明の4.を除き、1〜3については、いわゆるロリコン・ブームとそれ以前に出された書籍、雑誌の記事に記載が見られる。では、これらの記載と、キャロル像の変遷について時間軸を追って見てみよう。
ロリコン・ブーム以前のキャロル像について考える場合、昭和40年代の日本におけるキャロル紹介から始めなければならない。
一般に、日本における本格的なキャロル紹介の先鞭をつけたのは『別冊現代詩手帖 ルイス・キャロル』(1972)であると云われている。事実、それによって単なる童話作家ではないルイス・キャロル像が紹介され、アリス・ブームを起こしたのは確かである。本格的な紹介としてこれを嚆矢とすると考えるのは充分に妥当である。だが、その3年前、種村季弘が1968年から1969年にかけて『現代詩手帖』に連載した記事の中でルイス・キャロルを取り上げている。後に『ナンセンス詩人の肖像』として一冊にまとめられたその連載で、種村は、キャロルについて以下のように書いている。
……クライスト・チャーチ・カレッジの彼の部屋は、世にも完璧な「子供の楽園」で、ここに彼は小さな友人グループのためのありとあらゆる人形や玩具や楽器のような誘惑の道具をそろえていた。同時にしかし、彼が交際の対象とした少女たちは厳密に十歳までに限られた。それ以上の年齢に成長すると、彼と少女たちの間にはかならず「難破」が訪れたからである。……
(種村季弘「どもりの少女誘拐者」:『ナンセンス詩人の肖像』ちくま学芸文庫(1992)p.174。初出:竹内書店(1969))
その後『別冊現代詩手帖 ルイス・キャロル』所収の「遊戯の規則 キャロル再訪」において、種村はキャロルについて次のように書いている(この文も筑摩叢書版『ナンセンス詩人の肖像』(1977)に収録される)。
伝記作者たちはキャロルの生涯のなかの謎の三年間に注意を促している。『不思議の国のアリス』がリッデル姉妹のために語られたのは一八六二年七月四日のことであったが、出版は一八六五年である。この三年間、あの刻明な記録狂であったキャロルが一切日記を遺していないのである。この間にアリス・リッデルに宛てたであろうおそらく夥しい量に上る手紙は、『不思議の国のアリス』出版直前にアリス・リッデルの母親の手ですべて焼却された。川遊びのピクニックの途上で三十一歳の数学教師がアリス物語の聞き手に選んだアリス・リッデルはこのとき十歳、物語が出版されたときには十三歳になっていた。おそらくこの間にキャロルのアリスへの結婚申込みがアリスの両親に拒否されたのである。この当時、十代の少女と三十男の結婚はさして珍しいものではなかった。ポーがヴァージニアと結婚したとき、この処女妻は十三歳であった。ラスキンも十二歳の少女ローズ・ラ・トゥーシュを愛した。それにしてもこの少女誘拐者めいた求婚がスキャンダルであることに変わりはなく、世人の眼を怖れたリッデル家が二人の関係のあらゆる証拠を隠滅したのも当然であった。
(種村季弘「遊戯の規則 キャロル再訪」:『別冊現代詩手帖 ルイス・キャロル』(1972)p.50)
また、『別冊現代詩手帖 ルイス・キャロル』では、瀧口修造が種村季弘のインタビューに答えて、こう語っている。
アリスに乞食姿をさせたのなぞは傑作ですが、キャロルも病膏盲(原文ママ)に入るという感じがしないでもありません。キャロルが僅かな例外を除いて、女の子供にだけ異常な興味を抱いていたことは余りにも有名な話で、写真にもそれが執拗に現れていますね。しかも女の子はヌードがいちばんよいなどと言って相当執着していて、怖らくは少しは撮っているに違いないけれど幸か不幸か何も残されていないそうですね。
(瀧口修造「笑い猫夢話」:『別冊現代詩手帖 ルイス・キャロル』(1972)p.58)
1974年には、コミックの世界でルイス・キャロルが取り上げられる。和田慎二の短篇「キャベツ畑でつまずいて」だ。『別冊マーガレット』に掲載されたこの短篇では、作者の自画像ともいえるキャラクターがアリスを追いかける(後に和田は続編「キャベツ畑を通りぬけて……」を1982年、『アップル・パイ』誌上に発表する)。ここで主人公の一人岩田慎二は、『別冊現代詩手帖 ルイス・キャロル』を手にアリスの説明をする。ただし、ここで問題なのは、和田がこの作品の中で、キャロルが「7歳のアリスにプロポーズした」と書いてしまったことだろう。可能性として同書掲載の種村季弘「遊戯の規則 キャロル再訪」の求婚伝説と少女愛者像を引いたとも考えられる。アリス7歳というのは『不思議の国のアリス』物語中のアリスの年齢なのだが、実際のアリスの年齢と混同してしまったとも考えられる。
また、この短篇で特徴的なのは、ルイス・キャロルを「ロリータ・コンプレックス」と書いた点である。もっとも、このロリータ・コンプレックスという言葉は自画像ともいえるキャラクター岩田慎二を指すためにも使われていることから、後の時代に見られる興味半分の記述ではなく、むしろ自己言及のギャグとして使われている訳だが。コミックでは、これがキャロルとロリータ・コンプレックスを関連づけたおそらく初めての例であろうし、文学、サブカルチャーの中で考えても最も早い時期の例と考えられる(図1参照)。
1975年、角川文庫の『不思議の国のアリス』が、それまでの岩崎民平訳から福島正実訳へと改訳される。同じ年、旺文社文庫でも多田幸蔵の翻訳による『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』が文庫に収録される。角川文庫では訳者である福島正実が解説を書き、旺文社文庫版では高山宏が解説を書いている。この二つの解説は、ことキャロルの伝記的事実においては、一般に誤解を広める、決定的な役割を果たしてしまった。まづ、角川文庫の解説を見てみよう。
(この作品を書くきっかけになったアリス・リデルに、ルイス・キャロルは結婚を申しこんでいます。アリスが十三歳、キャロルが三十歳の年です。この求婚は、アリスの両親によって拒否されたばかりか、彼らは、アリスに宛てたキャロルのおびただしかったであろう一切の手紙類をすべて焼却しています。もちろん、このスキャンダラスな話が世間に出ることを恐れたためです。)
(福島正実『不思議の国のアリス』あとがき 角川文庫(1975)p.181)
この福島の文が後に一人歩きして、求婚伝説を一般化するに影響大であったと考えられる――福島の書いたキャロルとアリスの年齢差のミスがそのまま継承されている記述に、特にネットではよく出くわすのは前述の通り。
ここで、福島の文を読めば、種村の文の影響が強いことに気づく。種村の文では31歳となっている「黄金の昼下がり」の時のキャロルの年齢が30歳、アリスの年齢の13歳というのは『不思議の国のアリス』出版時のアリスの年齢をそのまま引っ張って来て書いている、そう考えてもよいほど、求婚とスキャンダルという点、アリスの母による手紙焼却という点まで種村の文に酷似している。種村の文では「おそらく」と推測になったいた求婚が、福島の文では、まるで事実のように書かれているが、福島がこの種村の本を粉本とした可能性は高いと考えられる。
高山の解説は後に本人が『アリス狩り』にも収録するだけの質の高さを持ち、出色のキャロル論として今でも色褪せていない。だが、現在ほど資料のない時代のこと、おそらく先行資料の誤りをそのまま伝記的事実として記載してしまったのだろう。あるいは1970年代という時代のせいかもしれないが、キャロルを少女性愛者という視点で書いてしまっている。
……後にオックスフォード大学の数学講師、聖職者となったキャロルは、グランディ夫人という謎めいた告発者の視線に脅かされつつ、年端もいかぬ少女たちのヌード写真撮影に陰気な熱を上げて、スキャンダルを起こした。……
(高山宏「ルイス・キャロル 人と文学」:『不思議の国のアリス』解説 旺文社文庫(1975)pp.179-180)
……キャロルは生涯独身であった。年端もいかぬ少女たちとの付き合い以外に女性関係と呼べるものは全くない。……
(同上。pp.185-186)
キャロルはこの少女に熱を上げた。二十も年の違うアリスに求婚さえしたらしい。アリスの母親というのが、娘は貴族に嫁がせようと考えていたような、典型的にヴィクトリア朝的な俗物女だったから、キャロルの申し込みなど軽く一蹴したらしいが、口さがない大学雀の話題にはなった。そんなこともあって、リデル家から敬遠されはじめ、……
(同上。pp.192-193)
多産な時代は一八八〇年に終わる。アリス・リデルが結婚したことが一つ。文字どおり、少女アリスは一人前のありきたりのレディへと凋落した。キャロルは結婚式に招待もされなかった。一方、かねてスキャンダルになっていた、少女の裸体写真の一件のため、写真を断念せざるを得なくなったのもこの年だ。流れゆくものに対する敗北の年とも言えるわけである。
(同上。P.195)
……キャロルは自分の付き合う少女の年齢を十四歳までと区切ったが、日記の中でこのあざとい分水嶺を「小川と河が出会う所」と呼ぶ。……
(同上。pp.192-193)
……人間嫌いのキャロルは、七歳から十二歳くらいまでの少女にだけは興味をもった。……(中略)……愛した美少女たちは、時が満てば一人前の女になっていく。こうして彼が愛した少女たち、アリス・リデルやアイザ・ボウマンと云った妖精(ニンフェット)が、キャロルの愛の国から離れていった。……
(高山宏「『アリス』作品の解説と鑑賞」:『鏡の国のアリス』解説 旺文社文庫(1975)pp.187-189)
「口やかましい世間の目」という比喩の「グランディ夫人」を、あの高山宏がなぜ固有名詞と誤解したのか(あるいは、読者が誤解するような書き方をしたのか)、理解に苦しむが、ここで少女のヌード写真、少女愛(大人の女性には目もくれない)、アリスへの求婚という要素がはっきりと書かれている。そして、求婚伝説や少女愛者像に種村との共通点も多く見いだされる。専門の研究者である高山がそのまま種村を引いたわけではないであろうが、双方の親文献が同じであった可能性は考えられる。
同じく1975年に『芸術生活』でも特集「ヴィクトリアンの愛と詩」の中でキャロルが取り上げられている。
カテドラルを撮りにいったドジスンが、当時四歳だった、アリスに惹かれ、その後求婚さわぎまで起こして、父親であるリデル博士と剣呑な仲になるのは有名な話だが、……
(東野芳明「アリスの町オックスフォード」:『芸術生活』1975年5月号p. 85)
ここでもキャロルがアリスに求婚したという伝説が、そのまま事実として書かれてしまっている。海外文献に当たった可能性もあるが、もし東野が国内文献でこの記事を書いたとするなら、種村の文に影響を受けたと考えることは不自然ではない。『芸術生活』自体は、それほどに大きな影響を持つ雑誌というわけではないだろうが、この特集が、後に『ALLAN』で参考文献として使用される。
1977年には『日本児童文学』がキャロルの特集を、1978年には『ユリイカ』で最初のキャロル特集が組まれた。同年『児童文学世界』でもキャロル特集が組まれている。この中で『ユリイカ』では、矢川澄子が求婚伝説について発言している。
高橋 アリスとは確か二十、年が違うんですが、必ずしも結婚不可能とはいえないんですね。
矢川 求婚したのは確か十三歳のときとか……。
高橋 求婚したという証拠は残っていないらしいんですよ。アリス宛の手紙は全部両親が焼いてしまったんですね。それに……。
(高橋康也、矢川澄子、別役実「ひとりぽっちのアリス」:『ユリイカ』1978年12月号p. 70)
この矢川澄子発言を敢えて弁護するとするなら、当時キャロルに興味を持っていた日本の文学者の間では、求婚伝説がかなりの説得力をもって受け入れられていた可能性が考えられる。角川文庫の『不思議の国のアリス』においても、訳者福島正実がこの求婚伝説を、そのまま伝記的事実として後書きに書いているのは前述の通り。
1982年、ぽぷら文庫から出た『ふしぎの国のアリス』では、訳者の蕗沢忠枝が「可憐な逸話」として求婚伝説をそのまま流してしまっている。
ばつぐんの大学教授なのに、おとなのなかでは無口で暗く、母のないさびしいドジスン先生は、反面、かわいい少女たちのなかでは、明るい、青空のように澄みきってのどかな、せせらぎのように話し続ける、ルイス・キャロルになっていました。それで「ルイス・キャロルは一生、十歳以下の少女をしか愛せなかった――」という神秘的な伝説さえ残っています。そしてそれを裏づけるように、可憐な逸話も――。
『ふしぎの国のアリス』が世界のアイドルになったころ――ルイス・キャロルは三十四歳のときに、十三歳になったアリス・リデルに正式に結婚を申しこんで、両親からことわられました。スキャンダルめいているというので、それまでアリスにだしたきれいな手紙も、みんな焼きすてられてしまいました。
ドジスン先生はそれから一生涯、ほかの誰も愛さず、だれとも結婚しませんでした。
(蕗沢忠枝『ふしぎの国のアリス』解説 ぽぷら文庫(1982)pp.211-212)
この蕗沢の文が、福島や種村の文をそのまま下敷きにしていることは明白である。日本では1976年にハドスンの伝記が翻訳出版されている。それから6年も経ち、種村的理解のキャロル像に変更を迫られている時期に、蕗沢は古い参考文献の記述の受け売りを行った。しかもその媒体が子供向けの叢書である点は、責められても仕方あるまい。
前史的な記述はこれくらいにして、今度はアニメーションにおけるロリコン・ブームについて記述する。いわゆる第一次アニメ・ブームの火付け役は1977年の映画版『宇宙戦艦ヤマト』と考えて良い。この時のブームにのって、かつて放映されていたテレビ・アニメのリメイクが多く行われるようになったが、その中に、かつて低視聴率で放映打ち切りとなった『ルパン三世』もあった。本放送では視聴率低迷に悩んだ『ルパン三世』であったが、再放送のたびに視聴率を上げて行き、リメイクされた番組は3年続いた。当然、人気に乗って映画版が作られる。その映画版『ルパン三世』の第2弾が、宮崎駿監督、大塚康生作画監督という、第一シリーズのコンビで作られ、1979年に封切された『ルパン三世 カリオストロの城』であった。そして、この映画が、そして、ヒロインである美少女クラリスがアニメファンの間に「ロリコン・ブーム」を巻き起こした。アニメに登場する美少女が一躍、注目を浴びたのだ。
アニメファンの間では、その少し前くらいから、『アルプスの少女ハイジ』のクララや『母をたずねて三千里』のフィオリーナ、『太陽の王子ホルスの冒険』のヒルダ、『未来少年コナン』のラナなどの美少女が注目され始めており、「ロリータ・コンプレックス」(ロリコン)という言葉が使われかけていた(余談ではあるが、『ハイジ』『三千里』『ホルス』『コナン』すべてにスタッフとして宮崎駿が参加している)。現に『カリオストロの城』のなかでも「妬かない妬かない、ロリコン伯爵」というルパンの科白がある。また、漫画の世界でも美少女の登場する吾妻ひでおの漫画が人気を博していた。『カリオストロの城』以降は、一部のマニアの間で使われていた「ロリータ・コンプレックス」(あるいは「ロリコン」)という言葉が普通のファンの間でも市民権を得たのだ。当時は山根一眞が命名した「変体少女文字」に代表される、少女の「かわいい」文化のただ中でもあり、「かわいい」ということそのものに大きな価値のあった時代でもあった。そういう時代の中、アニメにおける「ロリコン」という文脈の中でアリスがとらえられていった。
当時のアニメ雑誌の中で、マニア専門の雑誌ともいうべきものが三誌あった。今なら「オタク系」ということになろうか。『OUT』『Animec』『ふぁんろーど』(その後『ファンロード』と改称)である。これら三誌が、80年代初頭に、そろって『アリス』を取り上げているのだ。
三誌の中では『Animec』が一番早い。1981年に「"ろ"は、ロリータの"ろ"」という題で特集の組まれた号では、表紙が『ルパン三世 カリオストロの城』(それもルパンが「ロリコン伯爵」という言葉を口にした直後のシーン)であり、ロリコン・ブームが『カリオストロの城』から生まれたものであることを雄弁に示している。この号で特筆するべきことは、当時の日本のルイス・キャロル研究のリーダーともいうべき高橋康也のインタビュー記事があることだ。しかもその内容が、当時の「少女ブーム」について意見を訊く、というもの。特集の中でもキャロルに関する部分は至って良質であるが、アニメにおける「ロリータ」と、『アリス』との結びつきについて、目に見える形で雑誌メディアに載ったのはこれを嚆矢とすると考えて問題ないのではないか。
次いで『OUT』でも特集された。『OUT』の場合、本誌ではなく、増刊号である『ALLAN』で特集されている。アニメ全般を対象にしている本誌とは違い、『ALLAN』は美少年をテーマにした雑誌であった。これの1982年発行の第9号で美少女特集があった。ここでヴィクトリア朝における少女愛の例としてロセッティとその妻エリザベス・シダル、キャロルとアリス・リデルが論じられている。問題なのは、ここでキャロルの求婚伝説を無批判に出していることだ。
また、アリス・リデルがこの年、結婚している。ドジソン氏はアリスが13才のとき(彼が33才の時)結婚を申し込んで断られるという前科があったから、これは決して吉報とはいえなかっただろう。……
(中略)……アリスが13才のとき、ドジソン氏が結婚を申し込んだことはほぼ確実であるが、リデル家はこれを断り、両者の仲はきまずくなった。……
(「特集 ALLAN美少女スペシャル 第一章・少女を愛する男たち ルイス・キャロルと少女たち」:『月刊OUT』1982年4月増刊号『ALLAN』第9号p.18)
この特集に使われた参考文献は『ユリイカ』の1978年12月号のルイス・キャロル特集と、『芸術生活』1975年5月号のヴィクトリア朝特集、それと種村季弘の『ナンセンス詩人の肖像』である。『ナンセンス詩人の肖像』については前述したように求婚については推測の域にとどまっている。対して『芸術生活』においては、前述の通りほとんど「公然の事実」といった感じで求婚伝説の記載がある。また、キャロルについては『ユリイカ』の占める部分も当然大きいわけだが、肝心の『ユリイカ』では、キャロルの求婚伝説については、ほんの僅かしか触れられていない上に、根拠がないことがはっきり書かれている。その上で求婚伝説を「ほぼ確実」と言い切れる根拠はどこにあるのか。
好意的な見方をすれば、『ALLAN』の記者もこの求婚伝説を頭から事実と決めてかかっていた可能性はあると思われる。しかし、参考文献として『ユリイカ』を挙げながら、なおかつ求婚伝説を「ほぼ確実」と言い切るという態度は、記者に都合の良い部分を引っ張り出してストーリィを作った、と云われても仕方ないであろう。また、この特集では、キャロルの撮影した少女のヌード写真について、いささか単純化した形で紹介している。
しかし、ドジソンおじさんの少女趣味に性的抑圧にもどずく(原文ママ)猟奇的、犯罪的色彩が全くなかったかというと、そうではない。彼の少女趣味は次から次へと相手をかえて、生涯続き、その常習性は、どこか麻薬患者を思わせるところがあるのである。
(中略)……彼は、ここでも非凡な才能を発揮して後の人々の鑑賞に耐える優れた写真を残したが、中でも――当然であるが――"少女友達"を被写体にしたときが最高だった。しかし、それはドジソン氏の幼女趣味に潜む隠れた性行を暴露するものでもあった。……
(「特集 ALLAN美少女スペシャル 第一章・少女を愛する男たち ルイス・キャロルと少女たち」:『月刊OUT』1982年4月増刊号『ALLAN』第9号p.17)
そして最初に裸の少女を撮った時、彼は35才だった……
(中略)……むろん被写体は同僚の娘というわけにもいかなくなった。ドジソン氏はやがて、貧しい家庭の娘たちを探すようになっていった……。(同上。P.18)
求婚伝説については『ナンセンス詩人の肖像』に記載があり、『芸術生活』にも記載がある。少女愛者像についてもそうである。だが、この少女のヌード写真については、どうも上記二冊とは関わりがなさそうだ。『ユリイカ』にしても、おそらく少女ヌードについて参考にしたであろうブラッサイの記事にはここまでスキャンダラスな表現はない。むしろ、参考文献として挙がってはいないものの、このヌード写真に対する記述と求婚伝説に対する扱いを考えた場合、旺文社文庫に収められた高山宏の解説が大きな影響を与えていたと考えられる。いづれにせよ、当時は現在ほど資料がなかったとはいえ、ハドスンの『ルイス・キャロルの生涯』は発売されていた。そういう意味では、当時、唯一信頼できる伝記を無視した上で無責任に書かれたこの記事がキャロル像の誤解に一役買った点について、責められるべき点が多いと云わなければならない。念のため、キャロルの名誉のためにも断っておくが、「むろん被写体は同僚の娘というわけにもいかなくなった。ドジソン氏はやがて、貧しい家庭の娘たちを探すようになっていった」などという記述は全くの事実無根である。この記事を書いた記者の捏造(あるいはいい加減な聞きかじりをもとにした記事)である。
三誌の中で最も遅くキャロルの特集が組まれたのが『ふぁんろーど』だ。こちらは独自の『アリス』漫画を描いている和田慎二へのインタビューなど、『ALLAN』が美少女特集の中の一部としてキャロルに触れただけなのに対し、『アリス』、そしてキャロルを中心に取り上げた特集として注目に値する(あくまで「中心に」であって、この特集も全体では少女の特集ではあるが)。手書き本の『地底の国のアリス』のことや、アリスに実在のモデルがいた話、そのアリス・リデルが金髪ではなかったことなど、この特集で知ったアニメファンも多いのではないか。そして、この特集においても、求婚伝説は紹介されている。また、キャロルをロリータ趣味と書いている点でも興味深い。
作者のルイス・キャロルとは、実は数学者、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンのペンネーム。男だか女だかわからない筆名ごっこのハシリかもしれませんネ。
この人は、今はやりのなんとかシュミのハシリみたいな人で、小さな女の子に対する情熱は、なみなみならぬものがありました。……
(「シュミの特集 アリスと女の子の世界」『ふぁんろーど』1982年9月号p. 26)
……とにかくキャロルおじさまは、この写真のころからアリスにご熱心で、成長したアリスにプロポーズして(あんたいくつ!?)、彼女の母上に絶縁されてしまったほど。
(同上。P. 26)
時期的には一番遅いが、読者の幅広さ、キャロルをメインとしたことから考えて、アニメファンの間でのキャロル観をある程度決定づけたのは、この特集ではなかったかと思われる。その後も同誌は1987年と2003年にアリス特集を組んでいる。そして、それらの特集でのキャロルの扱いは、その後の研究の発展など全く無視して1982年のキャロル像をそのままなぞるだけであった。『ふぁんろーど』の記事においても、その少女愛者像と求婚伝説は種村『ナンセンス詩人の肖像』の影響が伺える。
面白いのは、ロリータ・コンプレックスの略称としてのロリコンが一般化するにつれ、派生語としてショタコン(正太郎コンプレックス:『鉄人28号』の主人公・金田正太郎少年のような、半ズボン、白ソックスの男の子に愛情を感じる女性)やアリコン(アリス・コンプレックス:ロリータ・コンプレックスが少女を対象とするのに対し、幼女を好む男性)という言葉が生まれてきた。『アリス幻想』(1976年)で編者の高橋康也が
ロリータ・コンプレックスという言葉は生まれたが、幸いにして「アリス・コンプレックス」という言葉はないようである。さすがの新造語好きの心理学的批評家、あるいは文学的心理学者にとっても、「アリス」という記号(シニフィアン)の意味内容(シニフィエ)を固定することは不可能だったということであろうか。
(高橋康也「アリス――または水晶幻想」:『アリス幻想』p. 17)
と書いていたが、サブカルチャーの世界では、本当にアリス・コンプレックスなる言葉が生まれたのだ。
すでに1984年には『アリス』とロリータの結びつきは当たり前になっていた。そして、キャロルをロリータ・コンプレックスという文脈でとらえる見方も一般化していた(ただ、そうとらえる人間の多くが、『不思議の国のアリス』も『鏡の国のアリス』も読んでおらず、ディズニー映画で「読んだつもり」になっていたのではないかと思われる)。
さて、アニメーションの世界と幾分重なる、当時のコンピュータ・ゲームの世界においても、83年頃からロリコン・ゲームが見られるようになった。ちょうど、82〜83年にかけて、NECのPC-8801や富士通のFM-8とその後継機種FM-7が登場し、日本のパソコンにもカラーグラフィックが一般的になったのと歩調を合わせた形だ(PC-8801やFM-7のカラーグラフィックは、8色、640×200ドット。当時のパソコンの中で、この性能は驚異的であった)。1983年、名前もそのまま『ロリータ(野球拳)』というゲームが出た。その作者(武市好浩)はその後『ロリータ2(下校チェイス)』というゲームを出し、84年には『Alice』というアドヴェンチャー・ゲームを出した。ここでもロリータ→アリスという図式が見て取れる。武市への取材記事が『LOG iN』1984年4月号に掲載されている。
アマチュアだからこそロリータの世界に遊べるのかもしれない。
不思議の国のアリスを書いた英国のルイス・キャロルも本業は数学と論理学。武市好浩やナボコフと共通してるね。ちゃんと本業を持っている、で、インテリなんだ。
あと、もうひとつ3人に共通しているのは、手垢のついていない言語を愛し、そして駆使しているということ。
(宮沢栄一構成「スターゲームデザイナー登場」:『LOG iN』1984年4月号p. 135)
「"アリス"は去年の4月から構想を始めて6月からプログラムにとりかかっています。2年計画で4月1日のエイプリル・フールに出したいと思っていますが、間に合うかどうか」
と、彼はノンビリ・ムード。
(中略)なんと、主人公アリスがちょくちょく画面に出てくるのだ。それも、例の「私をお飲み」の薬を飲んじゃうと、原作(?)と違って洋服はそのままのサイズだから、ドデカイ洋服の山の側で震える可哀相な小さなアリス、というような構図になるわけ。う、きゃ、きゃわいすぎる!
(同上。P. 137)
ことサブカルチャーの分野では、この1984年前後をもって『アリス』とロリータ趣味が同一視され、作者ルイス・キャロルについてもロリータ・コンプレックスという図式が一般化してしまったと考えられる。
ここまでを簡単にまとめるなら、1980年初頭のロリコン・ブームでルイス・キャロルと『アリス』がアニメ雑誌にロリータ・コンプレックスの文脈で取り上げられたが、その時に雑誌記事の参考文献として使用された情報は、大もとをたどれば1969,72年の種村季弘の記事と1975年旺文社文庫の高山宏の記事に行き当たる。この二つの記事から福島の解説や蕗沢の解説が生み出され、雑誌記事へと伝言ゲーム式に情報が波及したのであろう。昨今見られるインターネットでの情報の再生産まで含めて、情報の流れを図に示す(図2参照)。
年 | 事件 |
---|---|
1987年 | 清岡純子(雑誌『プチトマト』)摘発される |
1989年 | 宮崎勤事件 子どもの権利条約(国連総会) |
1991年 | 篠山紀信『Water Fruit』 |
1993年 | 子どもの権利条約(日本の批准) |
1996年 | ジョン・ベネ事件 |
1999年 | 児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰 及び児童の保護等に関する法律 |
さて、上述した「伝言ゲーム」の結果、「ロリコンのルイス・キャロル」像が広まったわけだが、1980年代初頭は、日本のサブカルチャーで「ロリコン」という言葉は「小さな女の子が好きで、大人の女性に興味がない」という程度の、ごくごく軽い意味として使われていた。当然、当時も少女を主人公にしたポルノコミックはあった(雑誌『レモンピープル』やアニメ『くりぃむれもん』シリーズなど)。しかしそれらは、(販売部数はともかく、通念上は)あくまで日陰の存在であり、主流は非性的なものであった。ところが1980年代末から、「ロリータ・コンプレックス」像に大きな変容が起こる。
1987年、少女ヌード写真集雑誌『プチトマト』を出していた写真家・清岡純子が摘発される(『プチトマト』の該当号は発禁。その後雑誌は『フレッシュ・プチトマト』として再出発)。そして1989年、宮崎勤事件が起きた。
1989年に起きた連続少女誘拐・殺人事件(宮崎勤事件)で、犯人の宮崎勤の部屋がテレビに映された時、部屋にあった大量のビデオや雑誌類が世間に衝撃を与えた。そしてこの事件を契機に「オタク」という言葉が社会的に認知された。事件の直接の余波として、ホラービデオの規制運動や、オタクと呼ばれる人たちの排斥が起こったわけだが(いわゆる「ホラービデオ狩り」「オタク狩り」)、この事件でもう一つ、世間に大きな印象を与えたのは、「小児性愛者」というものの存在であった。事件当時は「ロリコン狩り」といったようなものは目立って行われなかったが、一部識者のコメントに「ロリコン」という言葉が使用されている(非難側も、擁護側も)。
……幼女強姦・幼女買春の類を、強烈に実写するロリコン媒体(メディア)が、それ自体人権侵害であることはいうまでもなく、それがこんどの事件の犯人のような型の青少年に直接的影響を及ぼすことは明らかです。……
(中略)……明白な人権侵害を描くロリコンものは、少なくとも野放しにすべきはない。……
本多勝一「貧困なる精神」:『朝日ジャーナル』1989年9月15日号
(都市のフォークロアの会編『幼女連続殺人事件を読む』JICC出版局(1989年)p.46に転載されたものより引用)
彼のような人間は昔からいたわけで、ロリコン文化が彼のような人間を作ったのではありません。……
夢枕獏「ロリコン文化と彼とは無関係」:『週刊読売』1989年9月10日号
(都市のフォークロアの会編『幼女連続殺人事件を読む』JICC出版局(1989年)p.46に転載されたものより引用)
それまで軽い意味で使用されていた「ロリコン」という言葉が、やや変質的な「小児性愛者」というイメージに変容したのには、この事件の与えた影響が大きいと云わねばならない。
1989年には、もう一つ事件が起こっている。国連総会にて「子どもの権利条約」が決議されたのだ。先進国における児童虐待や、途上国で児童が保護されない現状に対し、「子供の権利」を謳ったものである。日本においては幾分誤解した受容もあったようであるが、この「子どもの権利条約」によって、日本では、先進国で児童虐待が起きている現実を認識した、とも云える。おそらく、児童虐待という点で日本人の注目を集めたのは、1996年のジョン・ベネ事件だろう。日本は事件の起こる3年前、1993年に「子どもの権利条約」を批准している。小児性愛が、ここに来て児童虐待と関連づけて語られることになる。
一方、1980年代末から日本では性表現の規制の緩和が起きている。その代表的な事件が1991年、篠山紀信撮影による樋口可南子の写真集『Water Fruit』であった。今まで日本では(表向き)規制されていたヌード写真の「ヘア」表現は、この写真集の出版以降、なし崩し的に解禁となった。そして、こういった緩和により、性表現そのものも緩和されてゆくことになる。
こういった性表現の緩和はアニメ同人誌における性表現の過激化をも生むことになる。「過激化」という表現は語弊があるかも知れない。もともとアニメ同人誌の中には過激な性表現を売り物にしたものが小さからぬ割合で存在していたからだ。むしろ性表現の規制緩和によって、過激な性表現を売り物にした同人誌が、描く側、買う側それぞれの抵抗感を弱めたといった方が適当であろう。また、同人誌販売の舞台ともいえるイヴェント(同人誌即売会)の規模が、1990年代に非常に大きくなったことも見逃せない。コミックマーケット(通称コミケ)が、現在東京ビッグサイトで3日間行われるということからも、規模の大きさは察せられよう。
始まったときは30サークル、参加者7、8百人の小さなファンの集会的なものでしたが、回を追うごとに膨らんでいき、現在では二万二千サークル、三日間の開催に30万人も集まる大規模なものになってしまっています。当初コピー誌や粗末な印刷誌が多かった同人誌も印刷技術の発達によって、見栄えのする立派なものになってきていますし、同人誌そのものの市場がコミケットによって確立したために、読者と作家のミニ状況が生まれています。マンガ、アニメのパロディなどが主流ですが、ゲームソフト、研究誌、音楽やSFなどの研究誌などジャンルも多様で、商業誌とは違った自由なサブカルチャーが生まれ、流布され、受け取られています。
(米沢嘉博 「COMIKEとは何か」(TOKYO COOL MANGA MESSE
http://www.inter-g7.or.jp/g2/manga/HTML/CMHTML/WCOMIK_J.html)より)
分母そのものが大きくなれば、当然、過激な性表現を売り物にする同人誌の絶対数も増える(念のために述べるが、コミケでは法規制に触れる猥褻表現はあらかじめチェックされ、修正を要求される。コミケ主催者たちの名誉のためにも、表現に関し野放し状態ではないことを断っておく)。そして、その中の少なからぬ数が、いわゆる「ロリコンもの」なのだ。性表現の規制緩和にともなう過激な表現の認容、同人誌マーケットの拡大により、過激な性表現を売り物にした「ロリコンもの」同人誌も増えてゆくことになる。
一般的な性表現の拡大に対し、児童に関しての性表現は規制される報告へ動いていった。上述の「子ども権利条約」や児童虐待に関連して、あるいは「小児性愛者」という存在の認識に伴う結果であったと思われる。1999年、「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」(通称「児童ポルノ規制法)が制定される。本来、性的虐待を受ける児童を保護するための法律制定であった。その後国会でも民間でもさまざまに議論されたが、その中で、軽い意味で使われていた「ロリコン」という言葉が「小児性愛者」を同一視する(「ロリータ・コンプレックス」の意味合いからすれば、本来の意味が生き返ったわけだが)視点が生まれた。この法案制定に際し、国会での議論にルイス・キャロルが引き合いに出されている。
○保坂委員 社会民主党の保坂展人です。
今回の発議者の皆さんの御苦労に大変敬意を表しながら、この法案審議に当たって、幾つかの点、やはり確かめておきたいということで、質問させていただきます。
まず、児童ポルノということが規定されているわけですけれども、一方で、芸術作品という概念がございます。例えば、不思議の国のアリスの作者であるルイス・キャロルという方がいらっしゃって、写真の技術が始まったばかりの一八六〇年代に、当時では珍しい写真術を駆使して、そのモデルであるアリス・リデルの写真をたくさん撮った。その中には、妖精に扮装させたり、あるいは裸に近い、もしくは裸の写真も撮った。実際、オックスフォードの上司で彼女の親が、これは危険だということで、交際を禁止されるということがあったようです。そのときの写真が、ロンドンのナショナルポートレートギャラリーに現在展示をされて、芸術作品として、いわば長きにわたって評価を得ているということが事実としてあります。
これが、彼の少女愛なりプラトニックなものであるとしても、そういう嗜好によってつくり出された芸術ということが明らかなわけで、こういうものが現在また写真集などによって出てくる、あるいは今後似たような形で出てくるという問題については、この法案ではどういうふうに考えておられるんでしょうか。
(平成11年5月12日第145回国会法務委員会議事録 http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000414519990512011.htm より)
この発言の中にも、1970年代のキャロル像をさらに歪めたようなキャロル理解が見て取れる。「彼の少女愛なりプラトニックなものであるとしても、そういう嗜好によってつくり出された芸術ということが明らかなわけで」という発言が、「小児性愛者」としてのキャロルという理解に近いこと、そしてその発言が国会という場でなされたことは注目してよい。
さて、先に同人誌の性表現が過激化したこと、その中にロリコン同人誌が少なからぬ数含まれていることを書いた。1980年代初頭には日陰の存在であった「ロリコン」の性的な部分が表へ出てきたわけだ。同時に1990年代を通じ、「ロリコン」という中の非性的な流れも相変わらず健在であり、「ロリコン」というイメージが、「かわいい少女が好き」というイメージと「小児性愛者」というイメージとの両極に分化してしまった。そこへ上述の児童虐待や児童ポルノ規制法の議論から小児性愛者が社会問題として認識されるに至る。ここへきて《ロリータ・コンプレックス=変質者》というイメージが誕生し、そのイメージが拡大することとなった。一方、過激化したロリコン同人誌と世間の意識の間にズレが生じたことも、こういったイメージを拡大する結果となったのではないか。
年 | 雑誌の特集 |
---|---|
1987年 | MOE「アリスinワンダーランド PART 1・2」 |
1987年 | ファンロード 「本だーらんど・スペシャル アリスとファンタジー特集」 |
1987年 | 少女座「アリスの本」 |
1991年 | MOE「Alice−二つの国のアリスとルイス・キャロル」 |
1993年 | アサヒグラフ 「[誌上公開]世界の画家が描いた不思議の国のアリス」 |
1996年 | MOE「アリスとたどる不思議の国」 |
1996年 | 翻訳の世界「特集 翻訳の国のアリス」 |
1996年 | 彷書月刊「不思議の国のアリス・わがアリス」 |
1997年 | MOE「『鏡の国のアリス』が誘う不思議な世界」 |
1999年 | 週刊朝日百科 世界の文学 「ヨーロッパIII(4) ルイス・キャロル、アンデルセンほか」 |
2003年 | ファンロード「カラー特集 ちょっと知ってるつもりになれる!? 不思議の国のアリス」 |
ではこの間、キャロルに対する、しっかりした研究に基づいたロリコン像の補正はなかったのだろうか? 右に1980年代以降の一般的な雑誌のキャロル特集を示す。ここで敢えて「一般的な雑誌」としたのは、専門書を読む人は充分に誤解が解かれているであろうと考えられるからである。つまり、一般誌で紹介される記事こそがこういった誤解を解くのに有用であるからだ。そして、そういった眼で見た場合、これらの特集はキャロルに関する誤解を解くには、何ら役に立たないものであったことが判る。それぞれの特集には良いものもあれば質の低いものもあるが、二つを除いてロリコン説や求婚伝説に触れたものはないのだ。そして、その例外である二つが『ファンロード』の1987年4月号と2003年2月号である。ところが、前述したようにこの二つの特集は同誌の1982年の特集の延長線上にあり、1987年の特集では、記事そのものではロリコン説や求婚伝説に触れていないが、読者投稿を使い、実質同じ内容で誌面を作っている。2003年の特集はそのまま1982年の記事を引き写しただけのような記事であった。1980年代以降キャロルの研究は進んでおり、1970年代のようなキャロル理解は否定されている筈が、そのことは一般誌では全く触れられず、触れられている特集ではむしろ誤解を助長しているのだ。
ところで、果たして1980年代初頭の「ロリータ・コンプレックス」という言葉が、今のようなイメージを持っていたら、ここまで《ルイス・キャロル=ロリータ・コンプレックス》像が広がっていただろうか? これについては、同じ内容の文献がありながら1970年代にはそこまで広がっていなかったロリコン説が80年代に入り、雑誌で一気に取り上げられたことがその回答となろう。本来スキャンダラスな印象を持つ「小児性愛者」的なキャロル像は、そのままの形で広まるには毒が強すぎた。ロリコン・ブームの中での「ロリータ・コンプレックス」という、いわば毒を薄められた形で咀嚼されたからこそ一般に「ロリコンのキャロル」という人物像が広まったと考えられる。そして、広まったあとでロリコンという言葉のイメージが変容してしまった。それに伴ってキャロルの人物像も「少女好き」から「変質者」へと変容した。
第5節のまとめの部分で図2として《ルイス・キャロル=ロリータ・コンプレックス》像が伝言ゲーム式に広がった経緯を示したが、90年代後半以降は、インターネットの普及に伴う情報の再生産が起きている。これは第1節で見たように、ネットで多く共通した情報が見られることからも判るだろう。実際、中には全く(句読点まで)同じ記事に出くわすこともあるのだ。そして、これらの情報は、ソースをたどれば既に見たように1970年代までのものがほとんどで、あとは憶測で書かれているものが多い。パソコン上の情報のコピー&ペーストによって、受容者の咀嚼を介しない情報の再生産が可能であることや、確かな典拠のある情報も、憶測やデマによる情報もすべて等質に扱われるというネットの性質からも、今後もこういった情報の再生産はインターネット上でとどまることはないであろう。
アニメにおける1980年代初頭のロリコン・ブームから、ルイス・キャロルを特集する雑誌が出されたのだが、これら雑誌の特集では、1970年代日本での「小児性愛者キャロル」像をそのまま引き継いでいた。その中で特に大きな役割を果たしたのは1969年の『ナンセンス詩人の肖像』、1972年の『別冊現代詩手帖 ルイス・キャロル』に収録された種村季弘の記事と1975年の高山宏の旺文社文庫の解説であった。当時の「ロリータ・コンプレックス」のイメージから、種村・高山の記事にあった「小児性愛者」としてのキャロル像が「美少女好き」という、毒を薄めた状態で一般に受容された。そして、そのために、「ロリコンのキャロル」というイメージが大きな抵抗なく一般に広まり、その後は伝言ゲーム式に「ロリコンのルイス・キャロル」像が再生産された。そして、このイメージが定着したのは1984年前後と考えられる。
ところが80年代後半から始まったいくつかの事件をきっかけとして1990年代に「ロリータ・コンプレックス」像の大きな変容が起こった。それは「美少女好き」から「小児性愛者」への「ロリータ・コンプレックス」像の変容であり、それに伴い、キャロル像も1970年代に示された「小児性愛者」像へと戻っていった。対して1980年代以降、キャロルと少女との関係について本格的に論考した雑誌の特集がほとんどなく、70年代以降の研究によるキャロル像の補正がほとんどなされていなかった。
90年代後半からのインターネットの普及に伴いコピー&ペーストによる情報の再生産により「ロリコンのキャロル」像が今も増幅されているが、これらの情報のソースは、多く1970年代までのもので、そこへ一部憶測が混じったものである。ネットの性質として、ソースのしっかりした情報も、古い情報も、憶測情報も等価に扱われることから生じるものである。
日本のサブカルチャーにおけるかくも歪んだキャロル像は、以上のような経過をたどって生まれ、現在に至ったものである。
追記(24th Nov,2003)
ver.2.0公開時に種村「キャロル再訪」を1969年初出としていましたが、この文の初出は1972年の『別冊現代詩手帖 ルイス・キャロル』が初出でした。お詫びの上訂正します。
ご意見等ございましたらcxj03744@nifty.comまでお寄せ下さい。
ルイス・キャロルのページへ