一分か二分の間、家を眺めておりまして、さあどないしよかと思(おも)ておりました。と、そこへお仕着せを着た伝令が森を抜けて走って参りました……伝令やろと思たのはお仕着せを着てたからなんですな。そやのうて顔だけ見てたら魚やと思てましたでしょ……そいつが戸を大きい音立てて叩いております。戸を開けたのは別の召使。こいつもお仕着せを着ておりまして、丸顔で大きい目をしておりまして、蛙みたいです。見ると伝令は両方とも鬘は巻き毛になっておりまして、髪粉をふっております。何が起きるやろかとえらい気になりましてな、少し森から出て聞き耳を立てます。
魚の伝令は話を切り出します時に、脇に抱えてました大きな手紙、自分と同じくらいの大きさの手紙ですが、それを出して相手に手渡します。「公爵妃閣下へ、女王陛下よりクロッケーの招待にござる」蛙の伝令も繰り返しますな。同じように重々しい声で。ただ、言葉の順がちょっとばかり違(ちご)ております。「女王陛下より、公爵妃閣下へクロッケーの招待にござるか」
二人一緒に深くお辞儀をしましたもんですさかい、巻き毛が絡まってしまいました。
アリスは大笑いしましたもんで、自分の声が聞こえやせんかったかと森まで走って戻る羽目になりました。それで、もう一回出てきて覗いてみたときには、魚の伝令は帰ってしもた後で、もう一人は地べたの上、戸口の近くに座っておりましてな、ぼけーっと、空を見上げております。
アリスはおそるおそる戸まで近づいて叩いてみました。
「叩いても無駄やで」伝令が云います。「わけは二つある。一つ目は、わしとあんたは戸の同じ側におるからや。二つ目は、家の中がやかましいさかいに、あんたが戸叩いても誰にも聞こえんからや」確かに中ではえらい大きい音がしております――ひっきりなしに喚いたりくしゃみしたり、時々は何かの割れる大きな音がします、お皿か薬缶でも粉々になったかのような音です。
「あのー、それでしたら、どないして入ったらよろしいのん?」
「戸叩いても無駄やないときもあるな」伝令が云います。アリスの云うことは全然聞いてません。「あんたとわしの間に戸があったらな。たとえばや、あんたが中におったとして、戸叩いたら出してやることも出来るのやが」しゃべってる間もずっと空を見ております。これはアリスにしてみたら無礼やと思いますな。「そやけど、多分、仕方ないんやろね」独り言を云います。「目が頭のてっぺんにあるんやもん。それにしても答えてくれても良さそうなもんやけどな。……どないして入ったらよろしいのん?」声を上げて繰り返してみます。
「わしはここで座っとるさかいな」と伝令。「明日までな……」
ちょうどそのとき戸が開きまして、大きいお皿が空を切って飛び出します。まっすぐ伝令の頭へ飛んでゆきます。お皿は伝令の鼻先をかすめたかと思うと後ろの木にぶつかって粉々になりました。
「……明後日までかも、ひょっとしたら」同じ調子で伝令は続けております。まるで何もなかったみたいにですな。
「どないして入ったらよろしいのん?」アリスはもう一回、もっと声を上げて訊いてみます。
「そもそも、あんた、入ることになっとるんかいな?」伝令は云います。「それを最初に訊かんならん」
なるほどその通りです。とはいえアリスにしたらそんな云われ方はしとないわけでして。「信じられへんわ」ぶつぶつ云うっております「みんながみんな、こんな言い方で議論仕掛けてくるやなんて。もう、頭がおかしなりそう!」
伝令は、さっきの話を繰り返すのにちょうどええと思たようです。云い方を少し変えましてな「ここに座ってるのや。座ってたり、座ってなんだり、ずーっとな」
「ほしたら、うちはどないしたらええの?」
「好きにしたらええがな」伝令は云いますと、口笛を吹きます。
「云うても無駄やね」自棄になっております。「正真正銘、アホとちゃうん」云いますと、戸を開けて入ってゆきます。
戸を開けるとそのまま大きな走り元へ出ます。台所(だいどこ)は隅から隅まで煙が立ちこめております。公爵夫人が三本脚の椅子に腰掛けて、真ん中に座っております。やや子をあやしております。料理番はといいますと火の上に屈み込んでおりまして、大きな鍋をかき回しております。中にはスープが一杯入っているようです。
「スープに胡椒入れすぎやわ!」独り言を云います。くしゃみが出る中で、なるだけちゃんと云おうとしてます。
なるほど胡椒がえらい量、部屋の中を飛んでおります。公爵夫人でさえ時々くしゃみをするくらいですので、やや子ときましたらのべつ幕なし、くしゃみをするかと思うと喚いております。走り元ではたった二人、くしゃみをしておりませんのは料理番と大きな猫でございまして、猫は炉辺に寝そべっておりまして、耳まで割けた口でニタニタと笑(わろ)ております。
「すみません、教えてくださいますか」アリスはちょっとおずおずしながら訊ねます。と、いいますのも、自分から最初に話しかけるのが礼儀に適(かの)うてるのか、はっきりせんかったからですな。「なんで、猫がこんな風に笑(わろ)てるんですか?」
「これはチェシャ猫じゃぞいな」公爵夫人が云います。「じゃによって笑うぞえ。豚!」 最後の「豚」いうのが急に乱暴な云い方になりましたので、アリスは飛び上がってしまいます。でもすぐにこれはやや子に云うたんで、自分に云うたのやないと判りました。それで、気合いを入れましてまた続けます――。
「チェシャ猫がいつも笑(わろ)てるやなんて、知りませんでした。それより、猫が笑うことができるやなんて知りませんでした」
「猫は皆笑うことが出来るぞえ」公爵夫人は云います。「それに、ほとんどの猫は笑うでな」
「猫が笑うとは知りませんでした」アリスは丁寧に云いました。話に入ることが出来たので喜んでおります。
「そちは物知らずじゃの」公爵夫人が云います。「間違いない」
アリスにしてみたら、こんな云われ方は厭ですわな。それで、話を変えた方が良かろと思います。なんとかアリスが話を変えようとしている間、料理番はといいますとスープの鍋を火から下ろしまして、すぐに取りかかりましたのが、公爵夫人ややや子に何でも手当たり次第に投げることでした――最初に火掻き棒が飛んできます。それから片手鍋やら大皿・小皿の雨あられ。公爵夫人は気にもかけていません。自分に当たっても平気です。やや子はとうから泣き喚いておりますので、飛んできた物で怪我したかどうかは、とてもわかりません。
「ちょっと、自分が何してるか、気ぃつけて下さいな!」アリスは叫びます。怖いもんで飛び跳ねております。「きゃあ、赤ちゃんのかわいい鼻がなくなる!」アホみたいに大きい片手鍋がやや子の鼻先をかすめて飛んで、ほとんど鼻をもって行かんばかりでした。
「もし皆が皆、自分のしていることに気をつけておったら」公爵夫人がしゃがれた声で唸って云います。「世界ももっと早うに回るものを」
「そうなっても、ええことないんやないですか」アリスは云います。ちょっとばかり知ってることを見せるのが嬉しいんですな。「そんなことになって、昼や晩がどうなるか、ちょっと考えてみて下さいな。地球いうのは二十四時間掛かって回るんですし、それを変えよとしたかて仕方な……」
「刀とな?」公爵夫人は云います。「刀でこの娘の首を打ちゃれ!」
アリスは料理番のほうをこわごわ眺めます。料理番が本気にするかな、と思いまして。でも忙しうにスープを掻き回しておりまして、何も聞いてる風はございません。それで、また続けます。「二十四時間やったと思いますけど、十二時間やったかな? 私……」
「もうよい!」公爵夫人が云います。「わらわは数字が苦手じゃ!」そう云いますとまた子供をあやし初めます。子守歌みたいなのを歌いましてな、一節歌うごとにやや子を乱暴に揺すります――。
「坊への言葉はぞんざいに
くさめをしたら はたくこと
くさめは大人を困らすためよ
この子はちゃんと知っとるわ」
合唱
……料理番もやや子も一緒に歌います……
「ワー! ワー! ワー!」
公爵夫人は、二番を歌(うと)てる間もやや子を乱暴に放り上げております。可哀想にやや子は唸っておりますので、アリスには歌の言葉がほとんど聞こえません。
「坊にはきつい言葉を使い
くさめをしたら はたきまする
この子の機嫌の良いときは
胡椒にしたかてお気に入り」
合唱
「ワー! ワー! ワー!」
「ほれ! やりたいなら少しあやしてたも!」公爵夫人がアリスに云います。云いながらやや子をアリスに放りまして。「わらわは女王陛下とのクロッケーの用意がある」急いで部屋を出ます。公爵夫人が出るところへ料理番がフライパンを投げつけますが、外れました。 アリスはやや子を受けましたが、ちょっと苦労しました。と、いいますのも、この子が妙な格好をしてる上に手足を四方に伸ばしていたからでして、「ヒトデみたいやわ」アリスは思いますな。アリスが受けたとき、可哀想なチビさんは蒸気機関みたいにびーびー鼻を鳴らしておりまして、身体を丸めたかと思うと伸ばしてたりしておりましたもので、全く、最初の一二分ほどは、抱いてるのがやっとでした。
やや子をどうやってあやすのが一番ええか判るが早いか……どうやってあやすかといいますと、結び目みたいに身体を捻りましてな、きつうに右の耳と左足を持ってほどけんようにするんですが……アリスは外へやや子を連れて出ました。「うちがこの子を連れて出んかったら」アリスは思います。「今日明日中にこの子は殺されてるわ。それでもこの子を置いとくんやったら、人殺しと一緒やないの」最後のほうは声に出しています。おチビさんはというと返事にぶうと鳴きました。……そのときにはくしゃみは止まってたんですな。「ぶうぶう云うたらあかんよ」アリスは云います。「ぶうぶう云うやなんて、行儀のええしゃべり方と違うねんで」
やや子はまたぶうと云いました。アリスは、どないしたんやろかと、こわごわ顔をのぞき込みます。間違いなしに、鼻が反り返っております。人の鼻というよりは豚の鼻です。それに、眼がやや子にしてはえらい小さい。アリスはこの子の見てくれが気に入りません。「いや、多分、泣いてるだけなんやわ」そう思て、涙が出てるかもう一遍眼を覗き込みます。
涙は出てません。「もしあんたが豚になるのやったら」アリスは云います。まじめです。「何もしてやられへんからね。解ってる?」可哀想なチビさんはまた泣きまして……いや、ぶうぶう云うてるのですかね。どっちやはっきりせい、いうても無理な相談です。二人は、しばらく黙ってそうしております。
「それで、うちが家に帰ったら、この子をどないしたらええのやろ?」アリスはちょうど、こんなことを考えておりますと、またやや子がぶうと鳴きました。なんとも猛烈な鳴きようでしたので慌ててアリスは顔を覗き込みます。今度こそ間違いない、正真正銘、豚でした。アリスも、もう、これ以上抱いてるのがアホらしなりました。
それでこの子を下に降ろしましたところ、安心したことに豚はとことこ森の中へ走り込みます。「もしこのまま大きなってたら」アリスは思います。「えらい不細工な子になってたやろね。そやけど、ちょっと男前の豚にはなれるわね」それで、ずっと考えます。自分の知ってる子で、豚になってたほうが良かったんちゃうかというような子のことを。それで、「あの子らを変えてしまう方法を誰か知ってたら良かったのに……」そう声に出したとたん、ちょっとびっくりしました。一二間向こうの木の枝にチェシャ猫が座ってるやないですか。
猫はアリスを見るとニタっとしただけです。おとなしい猫なんやろな、とアリスは思います。とはいえ長い爪もあれば歯もぎょうさんあるわけでして、下手に出たほうがよかろうと思いました。
「チェシャにゃんちゃん」ちょっと自信がない。こう云われるのを猫が好くやどうや判りませんので。とはいえ、猫はさっきよりちょっとばかり余計にニタっとしただけです。「お、喜んでるやん」そう思てアリスは続けます。「よろしかったら、どっちへ行ったらええか、教えてくれはりません?」
「あんたがどこ行きたいか、ちうんで違(ちご)てくるな」猫は云います。
「どこでもええんですけど……」アリスは云います。
「それやったら、どっちに行ったかてかまへんがな」
「……どこかに着くんやったら」解るようにアリスは云い足します。
「それやったら大丈夫や」猫が云います。「ずーっと歩いてたら、どっかには着くわ」
違うとは云えんと思いましたんで、云い方を変えてみます。「ここら辺はどんな人が住んでますのん?」
「こっちの方には」猫は云いながら右手を動かします。「帽子屋が住んでる。こっちの方には」左手を動かしまして「三月兎が住んでる。好きな方へ行ったらええ。どっちも気違いや」
「気違いのとこへは行きたないです」
「そら無理っちうもんや」猫が云います。「ここにおるもんはみんな気違いやねんから。わしも気違い。あんたも気違い」
「なんでうちが気違いやて判りますのん?」
「気違いに決まってるがな。そやなかったら、こんなとこへ来るかいな」
アリスにしたら、なんの証拠にもなってへんととは思いましたが、話を続けます。「ほしたら、なんでご自分が気違いやて判りますのん?」
「まづや、犬は気違いやない。それはええな?」
「そう思いますけど」
「それやったら」猫は続けます。「犬は怒ると唸る、喜ぶと尻尾を振る。さて、わしは喜ぶと唸る、怒ると尻尾を振る。故にわしは気違いなんや」
「喉鳴らしてるんでしょ、唸ってるんやのうて」アリスは云います。
「好きなように云うたらええがな」猫は云います。「今日は女王さんとクロッケーするんかいな?」
「ほんま、やってみたいです」アリスは云います。「そやけど招待されてないんですよ」
「そっちで会おや」云うなり猫は消えてしまいます。
アリスはそれほどびっくりはしませんでした。妙な事が起きるんに慣れてきてるんですな。最前まで猫のおったところをまだ眺めております間に、猫がまた急に現れました。
「そういうたら、やや子はどないなった?」猫が云います。「忘れるとこやった」
「豚になってしまいました」アリスは静かに答えます。普通に猫が帰ってきたみたいにですな。
「そんなこっちゃろと思てた」云うと猫はまた消えてしまいます。
アリスはちょっとの間待っておりました。また猫が出てくるんやないかと半分は思いながらでしたが、猫は出てきません。暫くして三月兎が住んでると云うてたほうへ歩き出しました。「帽子屋さんやったら前にも見たことあるし」独り言を云うてます。「三月兎はえらい面白(おもろ)そうやわ。それに、今は五月やし、そんな、三月みたいに気が違(ちご)てへんでしょ」云いながら目を上げますと、猫がまたおりまして、木の枝に座っております。
「さっき云うたんは『豚』やったかいな。それとも『無駄』やったかいな?」猫が云います。
「『豚』て云いました」アリスは答えます。「そうくるくる出たり消えたりせんでもらえます? 目が回ってまうさかい!」
「さよか」猫はいいますと、今度はゆっくり消えて行きます。尻尾の先から消え始めまして、ニタニタ笑いの消えるのが最後、こいつは身体が全部消えても暫く残っていました。
「まあ! 今まで笑い抜きの猫いうのは見たことあるけど」アリスは思いますな。「笑いの猫抜きやなんて! 生まれてからこんな変なん見たことないわ!」
それほど歩くでもなく三月兎の家が見えてきました。この家で間違いないとアリスは思いました。いいますのも煙突が耳の形になっていまして、屋根が毛皮葺きやったからなんですな。あまりに家が大きいもんですさかい、近づく前に左手のほうの茸のかけらをなんぼか囓りまして、二尺くらいの大きさになりました。それでもおそるおそる歩いて行きます。独り言を云いながらですな。「どっちにしても気が違(ちご)てた、いうことになったどうないしょう! 帽子屋のとこへ行ってたほうがよかったんちゃうやろか!」