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第一席 兎穴に落ちまして


 えー、暫くの間お付き合いを願います。相も変わらぬお噂でございます。
 主人公と云いますのが、アリスという名前の女の子。
 アリスは土手の上に座っておりましたが、お姉さんの横におって、なんもする事がないのにええ加減飽きてまいりました。一遍か二遍はお姉さんの読んでる本を横から覗き込んだりもしたんですが、絵もないし科白もない。「そやから、絵も科白もないやなんて、そんな本、何の役に立つねやろ」と思たわけです。
 そんなもんですさかい、一人で考えごとしてたんですな。一所懸命考えてた。なんというても暑い日やさかい、眠いし、頭がぼーっとなってるんで一所懸命考えなあきません。雛菊の花で輪ぁ作るんも楽しいなぁ、そやけど立って行って花摘むのも面倒臭いしなぁ、と。そこへ突然現れましたのが眼ぇが桃色の白い兎。
 そんなに珍しいいうこともなかったんです。アリスも、兎が「えらいこっちゃ! えらいこっちゃ! 遅れてまう!」というのを聞いても、そんな珍しいこととは思わんかったんですな。まあ、あとから考えたら、変やと思てもおかしないとは思たんですが、その時はほん当たり前に思てたわけです。それでも流石に兎がチョッキのポケットから時計を出して、時間見てから急いで行ったのを見たときには、アリスも立ち上がった。なんというても兎がチョッキ着てるのも、時計出すのも見たことないいうことに急に気が付いたんですな。どうなってんねんと思て兎を追いかけて野原を駆け出した。丁度、兎が生け垣の下にある大きい兎穴へ飛び込むのが見えました。
 すぐにアリスも飛び込みます。どないして出るやなんか全然考えてません。
 兎穴は、いくらかはトンネルみたいに真っ直ぐ続いてたんですが、急に真下へ向く。あんまり急やったもんで、アリスも止まろてなこと思い付く間がない。気が付いたら深ぁい井戸みたいなところを落ちて行ってました。
 井戸が深いんか落ちるのが遅いんか知りませんが、落ちて行く間にも周りを見回したり、次に何が起きるんやろとか考える時間はありました。最初、どこまで行くんやろかと下を覗き込んでみましたが真っ暗で何も見えません。次に井戸の中を見回しますに、水屋やら本箱やらで一杯でして、所々には地図やら絵やらが掛け字になって釘からぶら下がっております。目の前を通りました棚から壺を引っぱり出したところが表に「オレンジ・マーマレード」と書いたある。残念なことに中は空ですが。壺を落として下のもんを死なしたらあかんと、アリスは落ちる途中の水屋へ壺をなおしました。
「ほんまに……。こんだけ落ちてんから、もう階段から転こんで落ちてもなんとも思わへんもん。偉い子やいうて、家のみんな思うやろなぁ。それこそ、屋根から落ちてもなーんも云わへんし」……ま、そらそうですわな。
 下へ、下へと落ちて行きます。ひょっとして、このまま止まらへんのとちゃうか。「何町くらい落ちたんやろか。地球の真ん中辺まで行ったかしらん。そやねー、四千マイルいうとこやろか」アリスも学校でいろいろ授業てなもんを受けております。誰も聴いてる人はおらんし、知ってること見せびらかすにはあまりええ機会やないんですが、それでも口に出したらお浚いになります。「そや。丁度その位やわ。そやけど緯度とか経度とかはどうなんねやろ」緯度やら経度やらいうてもアリスにはなんのことやら解りませんが、それでも格好ええ言葉やと思たんですな。
「このまま地球突き抜けてもたりして。頭下にして立ってる人らのとこにうちが出てきたりしたら、けったいなことになるやろなぁ。確か反則地とかいうんやなかったかな」どうも言葉が合うてなかったようなんで、今度は誰も聞いてのうてよかったと思いましたな。「どこの国か訊かんとあかんな。すいません、ここ、ニュージーランドですか、オーストラリアですか?」喋りながらお辞儀をした。
……と、いうことなんですが、落ちながらお辞儀やなんて、どないやったんでしょうな。「なんちう物知らずやて思われるやろな。あかん、訊かんとこ。多分どっかに書いてあるやろから、それ読んだらええねやし」
 下へ、下へと落ちて行きます。落ちる以外になんもすることがない。アリスはすぐにまた独り言を始めよった。「うちがおらなんだら、ダイナも寂しがるやろなぁ」ダイナいうのは猫です。「おやつ時にはちゃんとあの子のお皿にミルク淹れてくれるやろなぁ。ダイナちゃん。あんたも一緒に落ちてたらねぇ。鼠はおらへんやろけど、蝙蝠は獲れるし。あれやったら鼠に似てるさかいな。そやけど蝙蝠て、猫が食べるやろか」アリスもなんや眠なってきてますよって、夢うつつで独り言を云うとります。「蝙蝠て猫が食べるやろか。蝙蝠て猫が食べるやろか」たまには「蝙蝠が猫て食べるやろか」となりますが、どのみち答えられん訳ですから、どっちがどっちでも大した違いはございません。うつらうつらとしてまいりました。ダイナと手ぇつないで歩いてる夢を見ましてな、「なぁダイナ、ほんまのこと教えてや。あんた、蝙蝠食べたことある?」とまじめな顔して訊いておりますと、どすん、ばさばさ、枝やら枯葉やらの山の上に落ちまして、落ちるのも終点でございます。
 怪我は全然なかったんで、ぴょんと飛んで立ち上がる。見上げたところが、上は真っ暗です。目の前には長い廊下がありまして、白兎が急いで行くのがまだ見えます。一刻も無駄には出来ん、アリスは風みたいに急ぎましてな、丁度兎が角を曲がりしなに「ああ、わしの耳、わしの髭! えらい遅刻やぁ!」と云うてんのが聞こえました。角を曲がる時には、兎に手の届くとこまで来てたんですが、曲がってみるともうおらん。自分はといいますと、一人、奥行きの深い、天井の低い広間にいてました。天井からランプが列になってぶら下がってて、部屋の中を照らしてます。
 広間のぐるりにはそこかしこに戸があります。ただ、これに全部鍵が掛かってる。戸を全部試しながら片側の壁を向こうまで行って反対側の壁に沿うて戻って来ます。真ん中へ歩いて来たときには肩を落としてまして、どないしてまた出たらええんやろ。
 気が付くと小さい、三本脚のテーブルの前へ来ておりました。テーブルは上から下までガラスで出来ております。上には小さい金の鍵以外には何もありません。アリスが最初に思たんは、これは、広間の戸のどれかの鍵やろな。そやけど、なんとまぁ、鍵穴が大き過ぎたり、鍵が小さ過ぎたり、どっちにしても鍵が開きません。でも、試して廻って二た廻り目に、さっきは気が付かんかったんですが、低う垂れてるカーテンに行き当たりました。その後ろには高さ八寸ほどの戸がある。鍵を試したところが、嬉しや、ぴったり合いました。
 戸を開けると中は小さい廊下に続いてます。鼠の穴と比べてもそんなに大きない。膝ついて屈んで、覗き込んだところが見たこともないようなきれいな庭が向こうに見えます。なんとかこの薄暗い広間から出て、花壇やらきれいな花やら涼しい噴水やらの辺りをぶらぶらしてみたいもんですが、戸からは頭も出せません。
「頭が通ったとしてもねえ、肩が通らへんわ。形無しやぁ」かわいそうなものでございますが、「望遠鏡みたいに身体が畳めてしまえたらなぁ。やりかたさえ判ったらなんとかなるんやけどなぁ」最前から変なことばっかり起こってますよって、何が起きても不思議やないちう気になってますのやな。
 いつまでも戸の前で待ってたかてしょうがないので、テーブルの前に戻って参ります。テーブルの上に他に鍵があるやも知らんし、どっちにせえ望遠鏡みたいに身体を畳める方法の書いたある本があるやも知らんしなぁと、半分くらいは望みを掛けてですが。今度は小さい瓶が載っておりました。「さっきまでなかったんやけどなぁ」云いながらながら見ると、瓶の首から紙の札が掛かってまして、大きい字ぃのきれいな印刷で「ワテヲ飲ミナハレ」と書いてます。
「ワテヲ飲ミナハレ」いうのはええんですが、アリスは小さいながらも賢い、そない急いで飲んだりはしません。「その前にちゃんと見て、『毒』て書いてないか調べんとね」といいますのも火傷したり、けものに食われてしもたり、他にもいろいろ面白ない目に遭うた子供の話を本で読んでたからです。どの子も友達が教えてくれた簡単なことを忘れてしもたからそんな目に遭うた。火かき棒の真っ赤に焼けたんを長いこと持ってたら火傷するとか、指を刃物で深ぁに切ったら普通血が出るとかいうことですな。それで「毒」と書いた瓶の中身をぎょうさん飲んだら、早晩えらい目に遭うということも忘れてなかった訳です。
 そやけど瓶には「毒」と書いてへんかったので、アリスも一口試して見ましたが、なかなかいける。そうですな、さくらんぼのタルトとカスタード、パイナップル、七面鳥の焼いたの、トフィー、それに熱いバタートーストを混ぜたような味です。すぐに飲み干してしまいました。

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「変な感じやわぁ。身体が望遠鏡みたいに縮んでんねやろな」
 全くその通りでして、今では八寸ほどの大きさになっております。アリスも顔が明るなりますな。これで、あのきれいな庭へ出る戸を通り抜けるんに丁度ええ大きさになった。それでも、最初何分かはこれ以上小さならんかと暫くおりました。その辺がちょっと気になったもんでな。「しまいには、ろうそくみたいに消えてしもたりして。消えたらどんな風に見えるねやろな」アリスはろうそくが消えた後の火て、どんな風に見えるんやろかと考えます。何というても、そんなもん見たこともありませんので。
 暫くしまして、もう何も起こらんということが判ったんで、あの庭へすぐにも行こうとしました。ところが、なんちうことか、あの小さい金の鍵をテーブルに忘れてたんですな。戻ってきたけど、手が届かへん。ガラス通して鍵を見てるだけ。テーブルの脚の一つによじ登ろうとしたのですが、とにかく滑る。もうええ加減疲れ果てて、へたり込んで泣き出した。
「ほれ、泣いても始まらんやろ!」ぴしゃっと云います。「早よ泣きやみ」この子はほんまにええこと自分に云うんですな。……殆ど云うことは聞いてませんが。時々は自分をきつうに叱ることもありまして、怒られた自分が泣いてまうこともあります。一遍なんか自分相手にクロケーやってる時に、というのは変な子で一人で二役するのが好きなんですが、まあその時にズルやったもんで自分のほっぺたを叩いたこともあります。「そやけど、ここで二役やってもしゃあないやん。身体が一人前もあらへんのに」
 と、テーブルの下にある小さいガラスの箱に目が行きます。箱を開けると中には小さいケーキが入ってます。ケーキには干しぶどうを使てきれいな字で「ワテヲ食ベナハレ」と書いてます。「食べてみたろ。もしこれで大きなったら鍵に届くし、小さなったら戸の下潜って行けるし。どっちにしたかて庭には行けるねんから、どっちに転んでも構へんわ」
 少し食べます。「どっちやろか。どっちやろか」気になって云いながら、どっちに行くかと頭の上に手ぇ置いてみましたが、驚いたことに何も起きません。まあ、ケーキ食うたかて普通は何も起きませんが、変なことが起きるんが当たり前になってたもんですさかい、普通のことが起きるちうのがなんとも退屈でアホらしいように思えたんですな。
 そんなわけでケーキに取りかかって、すぐに平らげてしまいました。

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